地球に対する柔和さ


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                                                      柔和な人たち (上)
                                                      マタイ5章1-12節



                               (1)
  今お読み頂いたのは、イエスが弟子たちと群衆に語られた「山上の説教(垂訓)」の最初の部分です。場所はガリラヤ湖の西岸、麦畑が緩やかな丘を覆う、日差しの穏やかな温暖の地です。ここは穀倉地帯で穀物は豊かにみのりますが、当時、この付近の麦畑は王の畑ですから、それを作った農民たちの口にはほぼ入りません。眼下には、美しい自然のガリラヤ湖が波静かに光っています。

  集まったのは、4章23節以下にあるような「色々な病気や苦しみに悩む者、悪霊にとりつかれた者」など、庶民や草の根で苦労して生きる民衆です。弟子たちも彼らに属する人たちでした。

  3節以下を読むと1節ごとに、「…人々は、幸いである」となっていますが、むしろ「あなた方は何と幸いだ」と訳す方がいいと言われています。心の貧しい人々、…悲しんでいる人々、…柔和な人々は、何と幸いなことかと、イエスは民衆に向かって幸いを、祝福を語られたのです。

  日の出と共に起き出て働き、日没と共に帰宅して休む。その日暮しの余裕のない人たちです。当時とは意味が違いますが、今日も、余裕のない生活を多くの方は強いられています。今朝もあった求道者会で、ある方が、先週は上司の人たちが正月休みの続きで休んでいて、大変な週になって終電で帰る日々でしたと言っておられました。都会の多くの人達が余裕のない生活を強いられています。

  イエスの宣教が、こうした草の根に生きる民衆への「あなた方は何と幸いだ」という祝福の言葉を持って始まったのは、イエスの福音は愛に重心があることを物語っています。裁きでなく人々への愛の使信であり、慈しみであり赦しの使信です。イエスはそのように人に接しられた。

  「心の貧しい人々は幸いである」です。ルカ福音書は「貧しい人びとは幸いである」となっていますが、マタイは単に「貧しい人々」でなく、「心の貧しい人々」となっています。これはマタイが、経済的貧しさで日々心労する人たちが、どんなに心に悲しみや苦しみや不安を抱いているかをイエスはご存知だったと解釈したからでしょう。ここにも、イエスの愛の深さが見られます。

  ここにはまた、常識を逆転させる価値観があります。不幸な人や、普通には弱さだ、マイナスだと見なされる人たちが、幸いだと言われていますが、これは神にあっての価値観の逆転、パラドックスです。神はそういう人々に必ず御目を留めて、日々の小さなわざの中であっても貴くお用い下さるということです。

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  こうした9つの幸い、9福の幸いを語られる中で、5節で、「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」と語られたのです。今日はここを中心にイエスのメッセージを聞こうとしています。

  妻は昨夜ここを読んでいて、「地を受け継ぐ」というのが分からないと言うのです。皆さんはどうでしょう。地を受け継ぐとは、親や先祖代々の土地を受け継ぐということでしょうか。しかし現実には柔和な人がそれを受け継ぐというより、権力を持ったり頭の回転が早かったりする者の方がそれをうまく受け継いでいるのでないかという問があるわけで、そういう事も含めてここを考えさせられます。

  「柔和な人」とは、心の柔弱な、へなへなな人という意味ではありません。「柔和」とは、穏やかであり、温和であり、優しく、素直な人という意味です。よく言われますように、優しさという字は人偏に憂えると書かれ、優しい人は人生の憂いを知る人であるとか、古代中国では、真に優れた優秀な人というのは、人の憂いを深く知る人間であるという考えから、この漢字が生まれたと言われます。

  柔和な人、穏やかな、優しい人というのは、自分を押し付けない人。ゴリ押ししない人。人の弱みに付け込まない人。人を操縦しない人という意味もあります。言葉を変えて言えば、他の人々の働く余地を持つ人です。そういう余裕を持って接している人です。

  ただここでは、人間関係の柔和さだけでなく、イエスは、「柔和な人々は…地を受け継ぐ」とおっしゃったのです。「地を受け継ぐ」のです。「地」とはゲースというギリシャ語で、大地であり、世界のことを指します。イエスは、柔和な人々は、遺産として大地を、世界を、更に言えば地球という自然環境を受け継ぐ。すなわち柔和な人々は神様から授かった地球の大地、その自然環境を受け継いでいくとおっしゃっているのです。

  これは今の時代にとって極めて重要な発言です。

  地球に対する柔和、優しさです。私たちは地球の生物環境に対して多大な負荷をかけ過ぎているのでないか。自然環境が受けている「憂い」を知って、地球の環境に対して優しくあらねばならないのではないでしょうか。先週の、「あなた方は地の塩だ」、世界に風味を添える塩であると言われたことは、この所にも当てはまるでしょう。

  地球への柔和さを考えるなら、柔和な人々とは、大地を独占しない人々という意味も、人間が地球を独り占めにしてはならないという意味も含まれて来ます。

  柔和さは負けを認めたり、諦めたりすることでなく、私たちの内にある環境に対する暴力性を認識して、それをコントロールし治めることです。

  最も大事なことは、大地は決して私たち人類だけのものではないという事です。それだけでなく、私たち今現在生きる者だけのものでもありません。来世紀、その次の世紀、更に先々の世紀、子々孫々のものでもあることを思って、謙遜にならなければなりません。この謙遜が柔和ということです。ですから柔和な人々とは、私たち個々人というより、私たち人類に言われていると取った方がいいのでないかと思います。

  大地は私たちに委ねられています。それは大地を乱暴に開発して膨大な利益を得、人が中心になって勝手に支配するためではありません。創世記1章は、神が人を造り祝福して言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」支配せよとは、正しくは治めることです。英語聖書にはスチュワードシップと訳しているのがあります。それは飛行機の客室乗務員が乗客の居心地がいいように奉仕することを言います。この青い惑星の乗客全員が、サルもイタチもクマも、居心地よく暮らせるように―彼らに冷暖房完備すべきだというのではありませんよ―奉仕するのが、人間の勤めであるということです。

  また創世記2章で、「神は人をエデンの園に連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」とあります。地球という美しい園を手入れし、正しく守るように人に委ねられたと言うのです。

  管理といっても、ただ人類の利益になるために開発するように委ねられたのでなく、環境自体に重心を置いて守るように委ねられたのです。この意味でも謙遜が重要です。

  これは理想のように聞こえますが、今謙遜にならなければ地球は壊れていくでしょう。私はそう予言したいと思います。

  地球の資源は無制限にありません。地球上の人々の連帯、国々の連帯、それと共にまだ登場していない次の世代、またその次の世代の人達との連帯も必要です。必要というより、それが私たち今生きる者たちの義務です。子々孫々への義務です。

       (つづく)


                                             2015年1月11日


                                             板橋大山教会 上垣 勝



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