夜を経験してから朝が来る


                                            (右端クリックで拡大)

                           Sercyからの帰り道
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                                                     風味をそえる塩 (下)
                                                     マタイ5章13-16節



                              (3)
  最初に申しましたが、「あなた方は地(人々)の塩である」という時、私たちが自分に委ねられた人々に中に入って、塩味を持って気高くまた美しく接して行くなら、私たちの人生自体にも風味が添えられ、意味を持ち、私たちの生命の味も引き出されることになるでしょう。

  そのために大事なことは、私たちがキリストの平和に与り、自分の中にキリストを迎え入れることです。キリストの平和が私たちの中にある時、地の塩であることができるのです。離れてしまうとダメです。

  ですから繰り返して立ち返ることです。日々にキリストに立ち返る。毎週キリストの下に立ち返っていく。そういう生活です。竹が真っ直ぐ天を指して伸びるのは、2、30センチごとに節があるからでしょう。節がなければシナっとなって垂れてしまいます。1週間ごとにキリストに立ち返るから、信仰は生きて働くのです。

  少し後戻りしますが、自分を振り返りますと、「自分は地の塩とはとうてい言えません。そのような貴い、高貴なものでは決してありません。私はあなたの前に身を低くしています。私の心は敗れボロボロで、口を塵につけ、私は自分の辛さ、苦しさ、恥を味わっています。主よ、ごめんなさい」というような所に、この新年、置かれている方々もあるかも知れません。

  だがそのような人たちにも、主は、「いや、あなたは地に風味を添える塩です。私はあなたをそのために選んだ。決してあなたを捨てません。あなたが、本当の地の塩になるために、私はあなたを持ち運びます。尽きぬ命を持ってあなたを憐れみ、支え、慰め、叱りもし、人生の終局まであなたを持ち運ぶことにしています。あなたは地に風味を添えるためにこそ、私はあなたを選んでいます」と言われるのです。

  あなた方は「地の塩になりなさい」ではありません。自分の力に頼って塩になろうとしていると、辛過ぎてしまったり、薄過ぎてしまったり、背伸びしていつの間にか不純物を含んで塩味を無くしたりします。アクが出たりします。

  「あなた方は地の塩である。」イエスは単純にそう言われます。キリストとの関係で生きる時に地の塩であるのです。イエスは9節で、「平和を作る人々は、幸いである」と言われましたが、それはキリストとの関係を生きる時に生み出されます。しかし、イエスとの関係をなくせば平和を作り出すという風味がなくなるのです。

  創世記1章に、「夕があり、朝となった」と何度も繰り返されています。朝がありそれから夕となったのではない。古代人の思想の中に深い意味があります。全ての人間は人生の夜を経験してから朝を迎えます。だが夜がある時、絶望してはなりません。悲観して、ヤケを起こしたり、ニヒリストになったり、無神論的になってはならない。夜を経験して見て、朝が来るのです。この厳かな事実を軽んじてはなりません。

  そのような者として、イエスは私たちを地の中に、人々の中に、世界の中に送られるのです。風味を添える者として送り出されるのです。人生の夜を経験して喜びの朝を迎えたことのある者は、自分の存在を、自分の体を、自分の持てる一切の賜物を注いで風味を作り出せるでしょう。そのことによって神は地の塩としてお用い下さるのです。昼ばかり経験している者は、決して風味ある塩にならない。

  イエスは最後に、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と言われました。

  「立派」とは、元のギリシャ語で、美しいこと、麗しいこと、優れたこと、妙なること、価値ある、高貴な、気高いことです。

  私たちは後世に残るような、見事な、立派な、名誉あるものを残そうと目指す必要はありません。背伸びをする必要はない。そんな名誉欲でなく、もし私たちに美しいことや麗しいこと、優れたことや価値ある、高貴な、気高いことが少しでもなしうるなら、それを通して、「人々が、……あなた方の天の父をあがめるようになるため」ということを目指したいと思います。自分でなく、神様の栄光のために生きたいと思います。その謙遜の中でこそ、塩は地に真に素晴らしい風味を添えるものになるのではないでしょうか。祈ります。


  (祈り)
  「主よ、人生に対して謙遜でありますように。あなたよりも前に出ませんように。自分の力と才覚で幸せを引き寄せようと焦りませんように。それは多く、失敗の道であり、罪の道になることを認識して、『主よ、お言葉通りこの身になりますように』と、主のお働きを忍耐して待ち、謙って待ち、謙遜に待つ人になりますように。
 人生に対して、また自分に対して、他者に対して謙遜であり、謙遜とは何かを深く知ることができますように。そして一切は、あなたが祝福して下さる時と場所を、待つ勇気を与えてください。待つことの勇気、待つことの大胆さ、そこから大胆に歩みを進めることができますように。待つということの中に、優れた積極性と革新性があることに気づかせてください。……」

         (完)


                                             2014年1月4日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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