風味をそえる塩
何をする人と思います?1軒しかないSercy村のブルゴーニュ・ワイン農家で働くAさんです。
農場の納屋で試飲して求めました。ここのチーズはそれは絶品で、白ワインは素晴らしいです。
農場主の老人は全く英語ができませんがAさんはきれいな英語を話しました。
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風味をそえる塩 (上)
マタイ5章13-16節
(1)
今日は、「あなたがたは地の塩である」という、山上の説教で語られたイエスの御言葉から福音を聞きたいと思います。この御言葉はいつ聞いても新鮮で、新年にふさわしい御言葉だと思います。
「あなたがたは地の塩である」とありますが、外国語の聖書には、「あなた方は人々の塩である」とも、「あなた方は人類の塩である」、「あなた方は世界の塩である」と訳しているのがあります。こう訳されると広がりが出てきますし、実際のギリシャ語はそういう広い意味合いを持っています。先ずこの御言葉の広がりをしっかり押さえておきたいと思います。
また、「塩に塩味がなくなれば、何によって塩味を取り戻せようか」とありますが、ここも、「塩に風味がなくなれば、何によって風味を取り戻せようか」と訳している幾つかの聖書があります。風味というのです。あなた方は人々の間に入って風味をつける者であり、世界や人類に風味を添える者であるということです。
風味とは、国語大辞典では、特に上品な味わいを指すとあります。上品な趣(おもむき)のことでもあります。雅(みやび)とまでは行かないが、庶民も日常味わえる上品な味です。
ただ風味というのは、風味だけを取り出すと大抵つまらないです。塩もそうですが、まったけの風味も、一瞬ふっと臭う何とも言えない香りにありますが、あんなもの沢山嗅いでも余り値打ちはないでしょう。やっぱり上等のすき焼きとか、何かに入ってこそ風味の値打ちが出るでしょう。
塩も何かに味わいを添えます。塩だけではショッパイだけで、風味はありません。しかし塩が食材に適度の塩味や風味を添えるといいのですが、塩味や風味がなくなれば、何によって味が付けられるでしょう。「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」と言われるのです。
「何の役にも立たず」とは、勢いや強さや命、力を失ってしまうことです。実際、パレスチナの天然の岩塩は何かで汚染されて変質したり、効き目をなくすことがあるのをイエスは知っておられたのでしょう。
イエス様は塩の譬えの次に光の譬えをされ、それらを締めくくって、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と語られました。
塩も光もそうですが、自分の立派な行いを見てもらうだけで終わっちゃあならない。そんな了見の狭い、みみっちい志で終わるな。それはエゴイズムであり自意識過剰であり、我欲以外の何ものでもないとは言っておられませんが、最終的に自分の手を離れて、「人々が…天の父をあがめるようになるため。」そこまで志を高く持ちなさいと言われたと言えるでしょう。
「あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」ファリサイ人と徴税人の祈りを暫く前に学びましたが、あのファリサイ人は、祈りにおいて、自分はこういう立派な者です、こんなことをしています、あんなこともしています、こう生きて来ましたと、自分に目を向けています。しかし信仰とは1にも2にも神にのみ目を向けることです。そのぐらいの覚悟で生きる時に、初めて塩は地にも、人々にも、人類や世界にも風味を添えるものになるというのです。
最初に赴任した九州の教会の斜め向かいに饅頭屋がありました。少し前、私と同年輩であったご主人が早死しました。その子どもが跡を継ぎ、「お陰さまで店は流行っています」とこの暮れに奥さんからお便りを頂きました。ご受人の若死には残念ですが、このお便りは嬉しいことでした。この子は、私たちの教会幼稚園に来ていて、我が息子たちの友達でした。今では饅頭屋のいい若大将になっているようです。お饅頭も、塩加減がちょうどいい具合に入っているのは、口当たりがいいし、上品だし、あんこの味をしっかり引き出します。
私が申し上げたいのは、幼稚園時代にあの腕白だったT君が、まんじゅう屋の若大将として中々町で好評の饅頭を作っている。そのこと自体が人々の間に風味を添えているということです。私はそのことが嬉しいなと思います。
(つづく)
2014年1月4日
板橋大山教会 上垣 勝
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