中学3年で家の購入契約


                            霧にけぶるテゼ     
                               ・



                                                   最初の弟子たち (下)
                                                   ヨハネ1章35-42節



                              (3)
  シモンがイエスの所に連れて行かれると、イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた」のです。

  イエスは彼をご覧になって、ケファ、岩という素晴らしいニックネームをおつけになった。彼は喜び、感激したでしょう。ケファは当時の人たちが話していたアラム語で岩という意味です。そして岩というのはギリシャ語にするとペトロです。そこから彼はペトロと言われるようになりました。ですから、ペトロもケファも同じ岩という意味です。

  岩というのは何事があっても動じないものの象徴です。また岩は他のものに仕え、支える働きをします。自分が上に立つのでなく、土台となって黙々と下から皆を支える。地味な働きですが非常に大切な働きです。彼はこの時はまだ小岩か石ころのように自分を評価していたでしょう。しかしながら何か特別の選びを感じたに違いありません。

  イエスがここでしておられるのは何でしょうか。イエスは過去から人を見るのでなく、未来からペトロをご覧になったということです。イエスは、神の未来から、神の御目からペトロを見ておられます。彼をこうしようという神の光が彼に当たっている、その当たっているままに彼に語られたのです。

  私たちは過去から人を見がちです。あの人はこんな人よ。こんな事もしたのよ。たいてい批判的に言います。無論私たちは歴史を生きているので過去の影を持っていますよ。ただ過去からだけで人を見ると、決めつけになります。色眼鏡になったり先入観になります。

  だが私たちが、神がその人をこうしようとご覧になるように自分自身を見、他人を見る。それは神の未来に開かれた目で見ることですから、人の目を超えた将来への希望が出てきます。希望的観測と言ってしまえばそれまでですが、それとは違います。神を信頼するとは神の未来への希望を持って見ることです。繰り返しますが、神は、私たち自身がまだ知らない賜物や可能性をご存じですから、神がご覧になるように自分と隣人を見るのが肝心です。

  やや意味が違いますが、私がこのクリスマスに嬉しかったことの一つは、25日に、クリスマスの当日、Oさんが久しぶりに牧師館を訪ねて来られたことでした。長くからおられる方はご存知ですが、今年大学に入った中国人女性です。

  彼女はバイトで授業料とお小遣いをまかない、その上に家にお金を入れているということです。大学生で家にお金を入れておられる。そのため土日もバイトで教会に来れなくなった。その他にも、何日かはお台場でバイトをして、帰りは終電です。並みの大人よりも働き、稼いで、勉強とバイトでフルに生きているパワフルな19才です。

  一家は去年一戸建てを買いました。その家の購入の交渉から契約まで、高校3年生ですよ、彼女が責任を持ってそれをしたのです。恐らくこれは何よりも多くのことを学ぶ人生の研修、フィールドワークだったでしょう。今後のローンの返済計画も一家の先頭に立って高校3年生が銀行と交渉しました。逞しいです。そんなこと皆さんできます?

  今、私が申し上げたいのは、中国から来てまだ言葉の不自由なこの一家5人が、フルに働き、家を持とうとし、高校生が一家を引っ張っているということです。今、大学生ですが。

  彼女のどこにそんな力があると思えるでしょう。決して見えません。しかし彼女はイエスを信じる者として、イエスに信頼して、いわば彼女も母マリアのように、「私は主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と、自分の賜物と可能性を差し出していると私は思っています。

  今の日本人は自分を甘やかしているのでないか。自分に甘いのでないか。そんなことをこのクリスマスに思わせられました。甘いのは、神があなたをこうしようとご覧になっているように自分自身を見ていない所が原因でないかということです。自分勝手に生きている。そしてかえってひ弱になっている。だが、「お言葉通りこの身になりますように」と、神に聞き従うことが大事なのです。

  もちろん彼女のようになりなさいと言うのではありませんが、私たちの身近なところで非常に考えさせられることが起こっております。

  イエスはシモンを見つめて、「あなたをケファ、岩と呼ぶことにする」と言われました。彼はこの時、特別な選びを感じたでしょうが、まだその意味が完全には分からなかった。だが、やがてペテロは、イエス様から、「私はこの岩の上に私の教会を建てよう」と言われます。私の教会、キリストの教会、キリストの福音、それはやがて欧米諸国の歴史の土台になり、いや世界の歴史と社会の基礎の大岩にまで発展していくものですが、イエスはそこまでのことを見ながら、ペトロに、あなたをケファと岩と呼ぶ事にすると言われたのです。

  私たちは自分自身をどこから見つめているでしょうか。自分はどこに留まっているでしょうか。自分の存在の足場をどこに置いているでしょうか。イエスが私をご覧になっておられるように、自分を見ているでしょうか。私たちに神の特別な光が当たっています。それに目を向けるとき、今は小石程度かも知れませんが、岩としてペトロとして私たちをもキリストがお使い下さることになるでしょう。

  大きなことだけを言っているのではありません。ただ、神が各自にお求めになることだけが重要です。

  アッシジの聖フランシスの言葉を読んで終わります。

    「愛する主、神よ、あなたはだれでしょうか。
    みじめな虫けらのような僕よ、
    私はだれなのでしょう。
    わたしの最愛の主よ、
    あなたを愛することが私の歓びです。
    主なる神よ、あなたにこの心と体を捧げます。
    そしてその方法さえ分かるなら、
    あなたへの愛ゆえに、
    それ以上のこともしたいのです。」

  ここにも、「お言葉通りこの身になりますように」と従った人がいます。


     (完)

                                                   2014年12月28日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・