兄弟伝道
彼にかわって、今日からは私が主役よネェ~…メェ~
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最初の弟子たち (中)
ヨハネ1章35-42節
(2)
2人は話をする中で、イエスがメシア即ちキリストであると信じるまでになり、その信仰を持ってアンデレは兄弟シモン・ペトロのところに出掛けたのです。
41節は、「彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――“油を注がれた者”という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った」とあります。
「まず」とあるのは、アンデレが家に帰るとまずシモンに会ったというのではありません。「まず」兄シモンに会おうとして会いに行ったということです。ぜひイエスのことを兄に伝えたいと思って会ったのです。
彼らは漁師です。彼はイエスの所に泊まりましたから、この朝、兄との漁を休んだのです。今ならe-メールで「ごめん、行けません。兄さんだけで行ってください」と書いて、お詫びのアイコンを貼り付けたでしょうが、兄に何も言わず無断で休んだ。無断欠勤です。
連絡せずに休んだので、兄のところに行きづらかったでしょう。でも、意を決して行った。謝ることがあれば、意を決して素早くすることは何事でも大事です。彼はしこたま怒られたでしょう。でも気が済むまで怒ったらそれで済みます。その後、「兄さん、聞いてくれませんか。こんな人に会ったんだ。兄さんも会いに行かないか」と言ったんです。
アンデレは兄に比べ内省的な青年だったと言われます。活動的と言えません。だが彼が活動的な兄に伝道したのです。イエスとの出会いがいかにアンデレに生きる意味を与えたか、喜びを授けたか、それが見て取れる場面です。彼は兄をイエスの所に連れて行った。中々そんなことはできませんよ。彼はここにこそ本物があると確信したのでしょう。
私がお話しているのは、ここに兄弟伝道の始まりがある。キリスト教の最初に兄弟伝道があったということです。身内伝道です。
ただ注意して欲しいのは、彼が兄弟に素晴らしい福音を語ったのではありません。彼が兄に説教したのでなく、イエスの所に連れて行った。イエスの所に連れていく。それが伝道であるということです。
自分の所に惹きつけるのが伝道ではありません。時々、そういう事があって自分の弟子を作る人がいますが、それは伝道に似ていても伝道ではないのです。大抵そういう時には、その人と懇意になりますがなぜか教会から離れることが多いです。それは長い牧会経験から言えることです。自分のところに人々を惹きつけるのでなく、イエスの所に連れていく。それが大事だということです。
(つづく)
2014年12月28日
板橋大山教会 上垣 勝
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