若者たちの身軽さ


                   ご苦労さま。大晦日にあなたとのお別れです。隣村のAmeugnyで。
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                                                   最初の弟子たち (上)
                                                   ヨハネ1章35-42節



                              (序)
  今年最後の礼拝を迎えました。一年を振り返って、今年の初め頃を思い出して、自分が今ここにいるのを不思議に思い、このことを一重に感謝しておられる何人かの方もあるでしょう。神は私たちを守り本当に不思議な道に導かれることがあるのです。しかしまた、今日はまだ会社の仕事があってお休みしますと言って来られた方があり、身内のお葬式で遠くに出かけますと言われた方もあり、体調を崩してしばらく来れないと連絡頂いた方もありました。すべての方々が守られて新年を迎えることができるようにお祈りします。

                              (1)
  さて、先ほどの前半の箇所は何の変哲もないような出来事が書かれています。バプテスマのヨハネの2人の弟子がイエスに会いに行き、「どこにお泊りですか」と聞いた。彼らはその晩、イエスの所に泊まった。ただそれだけです。

  変哲もないと申しましたのは、若者というのは実に身軽です。その日、初めて出会った人、例えば飲み屋やどこかで意気投合して遅くなると、その人の家に行って泊まることもします。そんなことは考えられない方もあると思いますが、若者は大人からすると大胆そのものです。私も若い頃、男同士ですがそんなことがありました。今も若者の間では普通だという人もあるでしょう。

  アンデレたちは20才前後の青年でしょう。イエスもまだ30才過ぎですが、今日会ったばかりの青年たちを泊まらせているのです。

  イエスは、2人が、「どこに泊まっておられるのですか」と聞くので、「来なさい。そうすれば分かる」とおっしゃいました。この言い方は実に合理的というか、だがぶっきらぼうに思う方もあるでしょうが、これは一種のユーモアでしょう。

  ここに、イエスはこの2人とじっくり話し合ってみようという思いがあります。初対面では、聞きたいことがあっても、「どこにお泊りですか」ぐらい、それ以上は遠慮も緊張もあって聞けないことがありますから。結婚式の披露宴で隣り合わせた知らない人に声を掛けることがありますが、最初は、「お名前は?」どこにお住みですか?」とか、「お仕事は?」という程度しか言えません。

  その点、先週のKさんのインタビューはうまかったですね。皆が舌を巻くほどうまい聞き方で、Uさんの人間としての素晴らしい味が引き立ちました。本質に迫ってUさんが輝きました。これから私に代わって、大山教会専属インタビュアーとして来年からデビューして頂きたいですね。どうですか、皆さん。テレビだとこの辺りで拍手ですね。

  イエス様は、彼らの遠慮ぶりを察して、もっと深いことを知りたければ、私の所に来てみなさいという意味で言われたのでしょう。ぶっきらぼうでなく、イエスは懐(ふところ)の広い、オープン・マインドな方です。彼らとの人格的な出会いを願ってそうおっしゃったのです。

  ちなみに、「どこに泊まっておられるのですか」という言葉は、メネインというギリシャ語が使われています。これは「泊まる、住みつく、留まる」という意味ですが、あなたは何との関係で生き、何に留まり、何にご自分の存在を根ざして生きておられるのですかという意味を持ちます。それに対しイエスは、「来て見なさい。私のところに来て、私が何に根ざして生きているかを見なさい。そうすれば分かる」ということです。

  2人がイエス様について行ったのは、彼らの先生であったバプテスマのヨハネが、イエスを見て、「見よ、神の子羊だ」と語ったことが影響しているでしょう。ヨハネの偉さは、自分のところに弟子を引き止めないことです。淡白というか、手切れがいいというか。自分が得することを考えない偉さです。荒野の預言者と言われる所以(ゆえん)です。

  「神の子羊」。その意味は、ご自分の身に私たち全ての人の罪と重荷を背負って献げ物になり、死に行く子羊のことです。私たちを罪から解放するために、私たちに代わって神に献げられる犠牲の子羊です。そこにご自分の全使命を献げているお方です。

  ヨハネがイエス様を指さしてこう語ったのは、イエスが神にすっかり献げ切っておられる姿を見たからでしょう。イエスが洗礼を受けて水から上がると、聖霊が鳩のようにイエスの上に降り、「これは私の愛する子、私の心にかなうもの」という声をお聞きになりました。ヨハネはその時点から、このお方は神のために献げられる最も聖なる方、神の子羊だと確信したのでしょう。

  ですから2人の弟子たちは、「神の子羊」とはどんな方だろう、それはどういう事だろうと思い、何か非常に深いものがあるに違いないと、直感的に惹きつけられたに違いありません。

  今日でも直感というのはやはり大切です。直感とは、この英語は元々はラテン語から来ますが、「じっくり見ること」、「熟慮すること」という意味です。直感というと、衝動的な、本能的なインスピレーションと考えられることが多いですが、そこで留まると、衝動的な軽率なものになっていきます。英語で直感はIntuition ですが、衝動や本能はInstinctと言って区別しています。熟慮し、そのヒラメキが間違いないと結論に達した時に、その直感が真の直感であるということです。

  こうして2人がイエスの所に行き、「その日は、イエスのもとに泊まった」のです。夕方の4時頃から夜遅くまであるいは明け方まで、イエスは彼らと、人生について、世界について、神について、人はどこから来てどこへ行くのか、自分という存在について、隣人についてなど、思う存分に語り明かされたのでしょう。

  ヨハネによる福音書は、例えば永遠の命とか、命のパン、真理と自由、良い羊飼いの譬えやまことのブドウの木の譬えなどにおいて深い信仰的思索、思想が書かれていますが、それは弟子たちとの夜を徹しての語り明かしなどの中で、何人もの弟子たちがイエスの人格から受けた影響が元になっているのだと思います。

     (つづく)

                                                   2014年12月28日


                                             板橋大山教会 上垣 勝



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