飼い葉桶におられる神


テゼから隣村Ameugnyを抜け、La Grange Sercyの酪農場を通ってLe Levryに向かう農道は素晴らしいウオーキングの場所です
                                            (右端クリックで拡大)
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                                                   飼い葉桶におられる神 (下)
                                                   ルカ2章1-7節



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  ベツレヘムのマリアとヨセフに戻ると、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」のです。「宿屋」とあるのは、元の言葉は「バラバラにする」とか、「壊す」という言葉です。どうしてかと思います。恐らく当時の宿は民宿なのでしょう。民家が内装工事でリフォームされて宿泊所にされたのです。民家ですが、一部が客間になっている。

  だがそんな民宿にも泊まる場所がなく、家畜小屋をあてがわれた。人間が居る所でない、家畜小屋の、寒々した、臭く、湿った、暗い部屋に入れられた。お金を積めば宿の片隅にでも上げて貰うことができましたが、そんなものは持っていません。

  いずれにせよ、人間として扱われる居場所がなかったのです。家畜との相部屋です。人の尊厳を奪われ、辱められ、疎(うと)まれた場所と言っていいでしょうか。

  だが、ここが重要ですが、そんな人間の居るべき場所でない場所に神の子キリストが来り給うたのです。今日の聖書はそのことを告げています。

  神の独り子キリストは、そのような人々の所に、すなわちこの世に居場所がない人たちの所に来たり給うたのです。そこに光を照らし、熱を与え、花を咲かせ、希望のある所にするためです。そこに自由と喜びをもたらすためです。「暗闇と死の陰に住む者たちに光が輝いた」とイザヤが預言した通りです。それがクリスマスに起こった出来事です。

  馬槽(うまぶね)に神が来られたのです。馬槽におられる神です。ローマ皇帝の豪華な宮殿やヘロデ大王の御殿に来られたのではありません。悩みある、陽の当たらない場所にいる人たちの所に来られた神です。そこにおられる神です。

  居場所がない人やよけ者になっている人は今日でも多くいらっしゃるのではないでしょか。自分の家だが居場所がない方もある。母だが、妻だが居場所がない。子どもだが居場所がない。職場に居場所がない方もあるでしょう。非正規労働者の方も、正社員なら大きな顔でおれる所に居場所がないでしょう。身の置き所がないのは肩身が狭く、不安で、辛抱がいります。辛いです。戦争やテロのために居場所がなくなっている人たちも多くいます。福島原発の近くに住んでいた人たちはそこに居場所がなくなりました。この世のどこにも身を寄せる場所がない人もいらっしゃるかも知れません。

  イエスが馬槽(うまぶね)に来られたのは、象徴的です。イエスはこの世に居場所や身の置き所がない人たちの隣人となられたのです。苦しむ隣人と出会い、彼らに希望をもたらし、生きる喜びの道を与えるためです。

  イエスは今も馬槽(うまぶね)に来ておられます。そこは湿った薄暗い場所だが、決して諦めたり、絶望してはならない。私はあなた方と共にいる。「神、我らと共におられる。」イエスは、重荷を持ち悩む者の友となり、兄弟となるために来られたのです。

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  ルカ2章10節には、羊飼いたちに伝えられた御子の誕生の喜びの知らせが記されています。「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 」

  「この方こそ主メシア」だと書かれています。ローマ皇帝は自分を主メシア、神と名乗っていました。だがルカ福音書は、ローマ皇帝でなくこの幼子こそ主であると、救い主メシアであると、勇敢にも記したのです。彼はこう記して自覚的に抵抗したのです。

  ルカ福音書の記者は医者です。「自分が踏みしめている大地を非常によく知っている人間」です。だからあからさまな政治的なアジテーションをしません。しかし、人々が何に悩み、何に苦闘しているかを知って、「霊的な精神的次元を持ち込んで」語ったのです。

  キリストは御殿でなく、馬槽(うまぶね)に、飼い葉桶におられます。高級なもので満ちた華やかな御殿にあるのはマモン、富の神、偶像でしょう。偶像を拝むとますます豊かさを目指し、不都合な隣人を避けて行きがちです。偶像とは自分たちの願望が作り上げた神に過ぎないからです。そこには異質な人と対話する生き方や、ましてや敵を愛する生き方はありません。そこに社会の本当の将来性はあるでしょうか。

  まことの神は低い所に来られたのです。イエスは獄中のヨハネの弟子たちに言われました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」イエスは苦しむ人や悲しむ人、小さくされた人と共におられます。

  御使いは羊飼いに、「恐れるな。民全体に大きな喜びを告げる」と告げました。まことの神、キリストの下では、誰も背伸びする必要はありません。恐れる必要はありません。むしろ大きな喜びが与えられます。

  キリストは地上に大きな喜びをもたらして下さるのです。「天に栄光、地に平和」。そういう大きな喜びが、新しい年に世界に満ちるように祈りましょう。

      (完)

                                             2014年12月21日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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