牽引力でなく愛が欲しいのです


           テゼの「和解の教会」の聖書台はブラザー達の最後尾にあります。
               そこから後方に向かって、世界に向かって聖書が読まれます。
                   その聖書台に置かれたイコンはマリアへの受胎告知でした。

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                                                   飼い葉桶におられる神 (上)
                                                   ルカ2章1-7節



                              (序)
  クリスマスおめでとうございます。聖書には、イエス・キリストの誕生の時に、ベツレヘムの丘で、羊飼いたちが「天に栄光、地に平和」という御使いたちの美しい歌声を聞いたとあります。

  2014年、私たちはこの地上での生をどう生きたでしょう。私たちは、今、同時代を生きる全ての人に、平和があるように祈りたいと思います。貧困に置かれた人、危険に晒されている人、また差別され、誤解され、人として正当に扱われていない人もあります。そういう人の涙が拭われ、人としての喜びと平和が帰ってくるように切に祈りたいと思います。

                              (1)
  キリストはローマ皇帝アウグストゥスから人口調査の勅令が出された時代に、今のパレスチナユダヤベツレヘムの町でひっそりお生まれになり、布にくるまれて飼い葉桶に寝かせられました。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」です。

  アウグストゥスジュリアス・シーザーの後継者で、紀元前31年から西暦14年まで統治した初代ローマ皇帝です。当時の帝国は、西はスペイン、東はシリア、パレスチナまでを支配し、北はドイツ、南はエジプトを始めアフリカの地中海沿岸全域を統治下に置いた非常に広大な帝国で、その軍隊と帝国を拡大する行け行けムードは相当なものでした。広大な国土を区画して、シリア州、マケドニア州、アカイア州などと州を定め、ローマ総督を配置しました。

  「すべての道はローマに通じる」とは、一旦緩急が生じればローマからどの地域にも軍隊を急派する。そのための軍用道路を造ったわけで、それが文化的にも転用され、すべての文化がローマに通じるという意味でも言われるようになった訳ですが、ローマはやはり軍事大国で軍事的に属国を支配しました。

  この人口調査の勅令(ちょくれい)は、「キリニウスがシリアの総督であった時に行われた最初の人口調査である」とありました。住民の福祉のためではありませんよ。人口調査は帝国の全住民から権力をもって税金を取り立てるためです。

  勅令は、今の日本にありませんが、戦前の大日本帝国では天皇が臣民に絶対権力を持って発布する命令でした。議会の審議も承認もいりません。「神である天皇」が独断的にできました。勅令のある社会は、非人道的な恐ろしい独裁社会です。戦前は良かったというのは、自然や人情味は良かったかも知れませんが、国家体制は良かったとは言えません。良いと言うのは全く歴史の改竄(かいざん)です。

  ローマ皇帝は自分の肖像を刻んだ貨幣を発行しましたが、アウグストゥスは「主である」、神であると刻まれていました。日本の戦前同様、神として礼拝するのを強要したのです。

  ですから今日の聖書には、権力者の姿が目を凝らせば垣間見えるように書かれ、それと対照的に、社会の底辺にいる人たちの姿が今日の所や、8節以下の羊飼いたちの姿に垣間見られるように描かれています。聖書は確かに歴史書として見ても、様々面白い発見があります。

                              (2)
  さて勅令が発せられると、「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立」ち、ヨセフも、臨月を迎えていたいいなずけのマリアと一緒に登録するため、ナザレから百数十キロ離れたベツレヘムの町へ向かったのです。臨月でロバに乗れるのかと思いますが、徒歩でも臨月でこれだけも歩くのは辛いでしょう。

  権力者はどんな状況にある人間も情け容赦しません。誰も人口調査を免れることはできない。天皇の命令で届けられた赤紙と同じです。

  ヨセフはマリアを連れ、いつ産気づくか分からない不安を抱えて旅に出たのでしょう。片や殿上人(てんじょうびと)や権力の頂点に居る人たちは、人民が命令に従順に従う姿を宮殿から見下ろして満足したでしょう。人民の苦労がどういうものか気づかないし気づこうとしない。

  そしてベツレヘム滞在中に、マリアは急に産気づき、初めての子を産んで、「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」ました。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」です。

  私は分かりませんが、初産というのはどんな気丈な女性にとっても何らかの不安があると思います。旅路のマリアもさぞ不安だったでしょう。だが神のみ告げに、「お言葉通りこの身になりますように」と答えた彼女です。どんなことが起ころうと、必ず神が良い結果に導いて下さると確信していたでしょう。自分の身に試練が降りかかっても、必ず神様の栄光が表されると思ったでしょう。それが、「お言葉通りこの身になりますように」という言葉です。

  だが急な出産です。ヨセフは慣れない手つきで、「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」のです。大昔だから誰もが平気だったとは言えません。布とあるのはボロ切れです。ドイツ語聖書はルンペンと訳しています。浮浪者のことです。幼子イエスはボロ切れ、ルンペンにくるまれて飼い葉桶に寝かされたのです。

  キリストはデパートの出産用品売り場で売っているふわふわの温かい産着を着せられ、可愛いベッドに置かれたのではありません。しかし、冷たい布で包(くる)まれても、人は愛されれば十分よく育ちます。物があっても愛がない。お金があっても時間がないというとよく育ちませんが、物はなくても愛に温かく包まれれば人は必ず育つのです。心配いりません。

  冷たい産着に包まれても、温かい愛の腕に抱かれて育てられたのが、太古以来の人類の大部分でなかったでしょうか。童話作家アンデルセンが生まれ最初に置かれた寝台には、隅っこに小さな黒い布切れが付いていたそうです。布が木の間に挟まってうまく取れ切れなかったからです。というのは、父親は大工で、このベッドは元は暫く前にある人の柩を乗せていた台で、それを子供のベッドに作り変えたので、柩の黒い布の一部が挟まって取りきれなかったのだそうです。

  彼は貧しい大工の家に生まれたのです。でも両親の愛の手で育てられ、世界で最も素晴らしい童話作家になりました。彼は愛を知ったから世界の人々の心を愛で動かす、素晴らしい童話を作ることができたのではないでしょうか。

  大企業を日本経済の牽引力にすると言いますが、勝ち組が貧しい人の隣人になったという話はまだ聞きません。牽引力でなく、隣人になることが重要です。隣人になろうとしないから、更に貯蓄し、国際競争と将来に備えなければならないと言って企業の財産を更に増やす。格差が広がるのは、隣人が視野にないからです。牽引力にすると言いながら、他方では自己責任だと言って障害者にも責任を押し付けます。本当にズルい。

  隣人愛が重要なのです。牽引力ではありません。無論多少の牽引力も悪くはありませんが、愛がなければ、牽引力になった時には、自分らが与えてやったのだ、くれてやったのだ、恵んでやったのだという尊大さが生まれるでしょう。

  金持ちが尊大な金持ちになれば、それは国自体の更なる質の低下です。憂えるのはその点です。牽引力のある金持ちでなく、愛のある金持ちが増えなければならない。今最も必要なのは連帯であって、してやるという所からでなく、貧しい者も富める者も共に元気が湧いて来るような一緒に喜びを持って連帯するような在り方でしょう。だが連帯の欠落、愛の欠如が社会において起っている。大変危険です。

      (つづく)

                                             2014年12月21日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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