ファリサイ人の救い


                      テゼの質素な昼食。これがおいしいのです。
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                                                     二人の祈り (下)
                                                     ルカ18章9-14節



                              (3)
  言葉を変えて言えば、徴税人は、「神よ、私というこの罪人の場所にどうかあなたが降臨してください」と祈っているのです。

  クリスマスは、神の独り子、キリストがいと低きマリアのもとに来られて降臨された出来事です。飼い葉桶に宿って下さった、憐れみ、慈しみの尽きない出来事でした。ましてやこの罪深い懺悔(ざんげ)する徴税人の上に、そして私たち罪に満ちた者の上に降って下さらない訳はないのです。彼は罪に打ちひしがれて、この者の上にあなたが降臨し憐れみを持って宿って下さいと祈ったのです。

  イエスは、「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われたのです。この「誰でも」には、あのファリサイ人、高ぶって見下げて来た人は決して含まれず、この「誰でも」から完全に除外されているのでしょうか。そうではありません。反対に、この徴税人が自分が謙った人間だ――ファリサイ人よ、ざまあ見ろ――と心の中でうぬぼれて高慢になっているとすれば、彼は低くされたでしょう。

  ファリサイ人が自分の問題の重大性に気づいて、砕かれ、謙る者になるなら、キリストの十字架の執り成しによって、義として頂けないことはないでしょう。いや、わざわざイエスが、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」語られたのは、彼らを断罪するためでなく、彼らも悔い改めて帰って来るようにと、彼らも愛し、彼らも神に創造された人間として、本来の神の似姿に戻るようになるためです。彼らも救われて、喜びや感謝を持って隣人と共に生きるようになるために、敢えて耳の痛いことをも語られたのです。ただ愛のためにそれを語られた。

 先ほどの交読詩編87篇に、「主は諸国の民を数え、書き記される。この都で生まれた者、と。歌う者も踊る者も共に言う。『わたしの源はすべてあなたの中にある』と」ありました。神によって創造された全ての人間の本当の源は神にあるのです。そうであれば、今は神を避けている人も、やがて神に帰ってくることを必ず待って下さっている筈です。

  使徒パウロローマ帝国を歩き回って異邦人伝道をしました。彼がそうしたのは、単に異邦人が救われるためではありません。異邦人が救われるのを見てユダヤ人が奮起し、彼らもキリストを信じるようになるためでした。彼は異邦人伝道という遠回りをして、やがて同朋が真の神に帰ってくるように願ったのです。高ぶる者も、心砕かれて神に帰ることをキリストが願っていらっしゃるからです。

  今週は3つの明かりですが、来週は明かりが4つ灯り、いよいよクリスマス礼拝を迎えます。自分の罪の大いさを思い、だがそれを遥かに超えて働いて下さる神の偉大な救いの御業に目を向けましょう。神は私の罪を超えて、罪の私を恵みへと、キリストの救いへと、神の国へと持ち運んで下さるのです。

  私が努力して救いに向かってよじ登っていくのではありません。憐れみ深いキリストが私たちを神の喜ばしい救いへと持ち運んで下さるのです。

          (完)

                                             2014年12月14日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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