「心の中で」が問題です


                          テゼのパイプオルガン
                               ・



                                                     二人の祈り (中)
                                                     ルカ18章9-14節



                              (2)
  さて、背筋をまっすぐ伸ばし、反り返って、「他人を見下す」人たちに対し、イエスはファリサイ人と徴税人の2人の祈りの譬えを話されました。

  「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」

  ここでも、他の全ての人たちのようでないことを感謝しますとファリサイ人に語らせておられます。彼は、神に感謝して生きて来ました。素晴らしいことです。だがその感謝は自己義認の感謝です。

  イエスは最後の14節で、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われましたが、高ぶる者であった彼が低くされて、今、低くされた高ぶっていた者としてキリストの前に砕かれ帰って行ったなら、神に義とされるでしょう。神はそういう憐れみのない方ではありません。だが、彼は砕かれようとしません。岩石のようにあくまで自己義認を貫くのです。

  ですからイエスは、彼に倣うな、彼を反面教師としなさいと言われるのでしょう。

  彼は神への感謝の信仰を持っていると申しました。だが感謝の信仰を持ちながら他人を見下げ、感謝しながら自己を義としている。彼には隣人が欠落している。そこに彼の問題が潜みます。

  彼は「心の中でこのように祈った」とあるのは、大変象徴的です。彼は道徳的に立派です。社会的・職業的にも立派。むろん宗教的にも立派で、週に2回断食する厳格なユダヤ人であり、全収入の十分の一を献げる見上げた人物です。自己義認というのは口に出して言われることはほぼありません。口では謙(へりくだ)ります。だが、「心の中で」自己義認しているという所に、彼の、また私たちの、人間としての問題の深刻さが横たわっています。

  心の中で、「へへ、私も捨てたもんじゃあない。自分の方が上だ。」そうチラッとつぶやく。そこが問題なのです。そういう問題を私たちは持つのです。

  それに対して、「徴税人は、遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』 」と言ったというのです。

  繰り返しますが、もしファリサイ人も、「私はどんなに罪深い人間であったか、今気づきました。どうか罪人の私を憐れんで下さい」と祈るなら、彼も義とされて帰ったでしょう。だが彼は自己を義としたままです。

  徴税人は、当時、ローマ帝国の手先になり、同胞のユダヤ人から税金を徴収していた税の請負業者です。彼らはいわば同胞を裏切る汚れた人間であり、その上、あくどい取立てもしたようで、ユダヤ人から金に汚い者としても憎悪されました。

  だがこの彼は、自分が罪人であるのを自覚して祈っています。「神様、罪人の私を憐れんで下さい」とは、神よ、罪の私に対する怒りを鎮めて下さいという意味です。元のギリシャ語は、ヒラステリオンとなっています。ヒラステリオンとは、贖罪所のことです。

  求道者会でヒラステリオンという言葉を学びましたが、これはエルサレム神殿の一番奥に設けられた至聖所に置かれた神の箱に関係しています。ユダヤ教では、神は、十戒を納めたこの箱の上に降りて来て臨在されると考えられ、そこで最も重要な罪を贖う燔祭が献げられました。ですから徴税人は、「神よ、あなたが私の罪を贖う贖罪所となってください」と祈っているのです。

  ファリサイ人は、自分は信仰深いといい気になっています。だがこの徴税人は、紛れもない罪人であるこの私をどうか憐れんでくださいと真剣に祈っています。ファリサイ人のように、他の人と見比べる余裕などありません。人が見ていようが見ていなかろうが、知られようが知られまいが、ただ一人神の前に出て、神に憐れみを乞っている。ここには自己の罪の悔い改めへの恐るべき集中があります。

  本来信仰というのはそういうものです。神の前に1対1で立つのです。生まれる時も、死ぬ時もただ一人です。母も父も人も金も持ち物も何ら役に立ちません。ただ独り神の前に立ちます。イエス・キリストのみが傍らで、十字架に架かって執り成して下さるのです。ファリサイ人は神の前に一人立っているようですが、自己義認して自分の力で、自分の義で立っています。そこに、他を見下す彼の根本問題、罪の深い根があります。

  イエスはこの徴税人とファリサイ人のことを話されて、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と言われたのです。

  この言葉は徴税人には、全く思いがけない言葉です。まるで天から突如頭上に落ちて来たもののように、神の喜ばしい福音として驚きを持って聞いたでしょう。

  もう一度申します。徴税人は誰かと比べてというような、一切の比較はありません。また、誰かのせいでこうなりましたという責任転嫁の言葉もありません。また、こうしますからこうして下さいという交換条件もない。

  ただ一途に「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言っています。これがどれだけ重要であるかは、この言葉がキリスト教の2千年の長い歴史の中で、「キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)」という祈りの言葉となって歌われて来たことから分かります。それはプロテスタントの私たちの教会讃美歌にも入っています。

          (つづく)

                                             2014年12月14日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・