人生を平和に美しくするもの


         五色の鐘が高らかに鳴り響くテゼの鐘楼。この素朴さが世界の若者に親しまれています。
                                              (右端クリックで拡大)
                               ・




                                                   やもめと裁判官 (下)
                                                   ルカ18章1-8節



                              (2)
  さて、ある人がこのやもめについて言っています。「あのやもめが勇敢にも裁判官の前に出て行ったように、神のご臨在の下へ勇敢に出ていく人は、祈っているのです。」(ブルームハルト)。私も本当にそうだと思います。神が臨在される。おられる。その所に勇気を奮って出ていく。初めは、硬くなって何を祈っていいのか分からず、十分思いを告げられないかも知れません。言葉を発しても、自分が何を言っているのかさえ分からないかも知れません。しかし、勇気を奮い起こして神の前に出ていくのです。

  言葉にならなくてもいい。黙っているだけでもいい。「沈黙の内に神の近くに留まることは、すでに祈り」(Br. ロジェ)です。「あなただけが私を助けることができます」という思いで、神の前に出るのです。神の前に出るという、この事実が大切です。日曜日に、皆さんがこの場に身体を運んで、キリストの前に身を置いておられることが大事なのです。口は思うように祈れなくても、心は雄弁に語っています。どうして神は、私たちの心を見分け、その全てを探って知って下さらない筈があるでしょうか。

  だが裁判官は、「しばらくの間は取り合おうとしなかった。」神を畏れず、人を人とも思わぬ傲慢な裁判官ですから当然です。

  だが、「その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」

  「うるさくてかなわない」とあるのは、元のギリシャ語では、「顔面を強打する」とか「目の下を殴りつける」という言葉です。そこから、しつこく悩ますという意味になりました。それで、彼女のために裁判をしてやろうと言ったというのです。彼女の正当性を回復するための裁判です。現実にこんな裁判官がいれば、何と助かることかと思う人もあるでしょう。

  こう言われてイエスは、「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」 と弟子たちに語られたのです。

  「この不正な裁判官の言い草を聞いてみよ。」こんな不遜な裁判官でも、信頼し、礼を尽くして執拗に頼みさえすれば聞き入れてくれるのなら、ましてや神が聞き入れて下さらない筈がない。

  神は不正な裁きを放置されないのです。冤罪を晴らして下さるのです。神こそ、最後的な決着をつけて下さるのです。

  男性が何人か集まると話題になるのは、「誰が一番正しいか」、あるいは「誰が偉いか」ということです。男たちの世界では、猿山の大将を決めるような話がよく出ます。今のトップより、2番手の方が実力で優ってるじゃあないかとか、皆も、彼の方を信頼しているとか、論争が高まるとカッカして頭に来たりして、時には、「やるか」という言葉が飛び出したりします。すると「やるなら、やってみろ」と応戦し、両者とも引っ込まない。昔はそんなこともありましたが、今の時代はどうでしょう。年末はお酒が入って刃物沙汰になることすらありました。

  その点、女性たちは柔軟ですからそこまで行かないでしょう。でも女性の場合は嫉妬やヤキモチで実にややこしくなることがありますか。どうですか。

  今日の箇所は、こういう万国共通の普遍的な問題も含んでいます。

                              (3)
  そのことはさて置き、イエスはここまで語って最後に、「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とおっしゃったのです。

  先ほど申しましたように、「やもめが勇敢にも裁判官の前に出て行ったように、神のご臨在の下へ勇敢に出ていく人は、祈っているのです。」

  しかし、人の子キリストが来られる時、やもめのように神の前に出て、執拗に、謙遜に、しぶとく、気を落とさず、神への信頼を込めて祈る人がいるだろうか。

  私たちに問われるのです。神がお聞き下さるかどうかでなく、神の側に問題があるのでなく、人間の側に、私たちに問題があることを指摘されたのです。生きた信仰を持っているか否かです。神は中々聞いて下さらず、訴えを取り上げて下さらないように見えるかも知れないが、気を落とさず祈れと言われるのです。

  祈っていれば、聞き入れられた時には、もの凄い感謝が湧くでしょう。でも一時は祈ったがそのうちに祈りを忘れてしまうので、聞き入れられたのに感謝が湧かない。こんなことになっちゃった。ああ、よかったぐらいで終わります。すると神との交わり活きた交わりでなくなる。

  先ほど申しましたが、祈りは神との、またキリストとの活きた交わりです。キリストと交わる時に、キリストの力強い命に与るのです。キリストが私と交わって下さっているという事実が私たちに力を授けるのです。孤独の時に、特にこのことが力を与えます。すると孤独が感謝に変わるのです。

  キリストは暴力的に扱われて十字架で死なれました。だがイエス・キリストは暴力に暴力を持って向かって行かれませんでした。憎悪に取り囲まれながらも、暴力なしで接して行かれました。しかも、ここが重要ですが、十字架に付けられて、運命論や諦めや消極的な無抵抗で、十字架刑を甘んじてお受けになられたのではありません。

  そうではなく、最後の最後まで積極的に愛されたのです。「この人たちは何をしているのか分からないのです。彼らをお赦し下さい。」十字架という受難の苦しみは到底理解できないものです。そんな中で赦すのは馬鹿げた行為に見えます。それにも拘らず、イエスは父なる神に信頼していかれました。父なる神の何に信頼して行かれたか。それは、神は如何なるどんな悪よりも力強く、偉大であられること。そして人の死は決して人生の最後の言葉ではないことを、信頼していかれたのです。

  イエスにとって信頼とは、神の側にいることを選ぶこと。神への決断です。神に委ねるとか任せるとか言いますが、自由に身を引いてこちら側にいることもできる中で、あえて神の側に身を置く決断をすることです。

  死は最後の言葉ではありません。この世で経済的に勝利することが勝者の印と思っていないでしょうか。今の政権下そういう風潮が強まりました。だが違います。経済的勝者が人生の勝者ではありません。皆さん、よくお考え下さい。お金を多く持ったかどうかが人生最後の決め手ではありません。それを超えたものがあります。或いはおられます。

  私たちは祈りにおいて、このお方と交わるのです。それは永遠の命を持つお方です。このお方と交わること。その命に与ること。そこに人生の最も確かな揺るがない喜び、祝福、平和、信頼できる岩が存在しています。そしてこのお方との交わりこそ、人生を晴れ晴れとし、美しくするのです。

  そしてこの喜びと祝福と平和、人生を美しくしてくれるものを持って人と交わるのです。そこに地の塩、世の光としての働きが可能になるのです。

    (完)

                                             2014年12月7日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・