裁判官へのストーカー


                    大山を訪れたテゼ共同体のブラザー・ギランさん
                                              (右端クリックで拡大)
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                                                   やもめと裁判官 (上)
                                                   ルカ18章1-8節



                              (序)
  今日の箇所は他の福音書にはない、ここだけにあるルカ特有の記事です。ですから、貴重な箇所を取り上げることになります。祈りの大切さを教えるために、気を落とさず、絶えず祈ることの大事さを譬えで語られたのです。

  もう一度申しますと、絶えず祈り続けること、気を落とさず祈ることです。途中で諦めてはならないということです。

  ちなみに、「祈り」と簡単に申しますが、祈りは聖書では本来、神に向かうことを指します。しかも真の神に対する祈りのみに使います。神以外のものに祈っても、それは祈りではありません。

  祈りは神との交わりであって、信仰の最も中心部分にあるものです。信仰の中核にあるのが祈りです。言葉を変えて言えば、祈りは神との交わりですから、神との交わりにおいて神の命に現実に与りますから、必ず私たちは造り変えられるのです。日陰から、日向に植物を出してやれば、必ず燦々と陽を受けて元気になってグングン成長するのと同じです。神と実際に交わるならその命に触れて、命が私たちに流れ込むのです。神と交わり、神に祈るのは誰でもできます。自分は汚れているから交われない、資格はないということは絶対ない。それは弁解です。今日からできます。今日から神の命に与ることができるのです。

                              (1)
  今日の聖書はこうありました。<イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちに譬えを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。>

  当時の裁判官は、庶民からすれば雲上の人です。今でもある程度そうかもしれません。裁判官というのは官舎に住んで中々ガードが堅いです。しかもこの譬えで言われた裁判官は、「神を畏れず人を人とも思わない」、まるで絶対君主のような、いかなる人の言葉や忠告も聞き入れない、一切他から指図を受けない傲慢不遜、傲岸そのものの人物です。

  自信満々で強気。権威的で、神を恐れず誰をも尊敬しない。「人を人とも思わない」とは、人を尊敬しない、決して敬意を払わないという意味です。誰にも頭を下げない訳です。

  この間、ある所を歩いていて、金柑がたわわになっているので、クリスマス・ツリーの飾りに添えたいと思って、2、3分けて貰えないかと庭にいた人に話しかけました。そしたらまだ用件も言わないのに、「ダメだ」と偉そうに言うのでビックリしました。一瞬心を読まれたかと思いました。問答無用で野良犬のように追っ払われ、世の中には、穏やかに対話できない人がいるのかと驚きました。

  確かにこの裁判官のような人が稀(まれ)に世にいます。嫌になっちゃう。絶対折れようとしない。その人なりの理論武装をしていて頭を下げない。自分に反対する者、楯突く者に権力を行使し、自己を誇示する。この人はそんな裁判官です。

  イエスは別の所で、「見えると言い張るところに、汝らの罪あり」と言われましたが、見えなければ罪はない。だが見えると言ってクロをもシロだと言い張る。

  裁判は、確かに法に対する不動の権威のもとで行われ、不動の権威を人に示し、法が絶対的に支配する側面があります。裁判官は法の権威を守れなければならない。人を恐れちゃ法は固守できません。

  それに対して、やもめは何のバック・アップもありません。当時のやもめは、法的にも、社会的にも保護されていませんでした。極めて不利な立場に置かれ、しばしば人の食い物にされ易かったようです。

  彼女は、頼るべき一族もおらず、全く頼るものを持たない女性です。その彼女が、「裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』」と言ったというのです。

  「裁いて」とあるのは、私の敵に復讐して、私の正しさを証明してください。更に言うなら、この冤罪を晴らして下さいと頼んだのです。冤罪です。

  「来ては」とあるのは、原文では継続の動詞が使われていますから、何度も何度も来たのでしょう。ストーカーみたいです。裁判官に対してストーカーみたいなことをしている。

  ただ彼女は、他の人でなく、この裁判官だけが自分を助けることが出来ると知っているのです。この人以外にないのです。だから、ストーカーみたいですが必死に食い下がっているのです。

  彼女は決してストーカーではありません。初めて裁判官を訪れた時、おずおずと家に入ったでしょう。ドアのノックをどうしようか。強く叩くべきか、そっと叩くべきか。強く叩き過ぎて、「やかましい。ダメだ」と用件言っていないのに怒鳴られはすまいか。反対に、弱く叩いて、聞こえなければ、聞こえるまで何回も叩いてしまって、「何度も叩くな」と叱られないか。

  彼の前に立った時は、足がブルブル震えたでしょう。喉が引きつってうまく言えなかったでしょう。ただ尊敬を抱きながら、「あなただけが私を助けることができます」と、一番肝心なことだけは必死でやっと伝えたでしょう。

  だが「裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。」拒み続けたのです。ここも過去の継続の動詞が使われています。来ても、来ても追い返し、追い返して断り続けたのです。

  それでも彼女は裁判官の家の前で佇み続けたのです。これが、イエスが譬えで語られたやもめと裁判官のストーリーです。


    (つづく)

                                             2014年12月7日


                                             板橋大山教会 上垣 勝



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