先を歩く神
コモン・ルームにはこんな絵が無造作に架けられていました。
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自己を鍛えよ (下)
Ⅰテモテ4章6-10節
(3)
最後に、「わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです」とあります。
鍛錬してもその先に希望がなければ何の鍛錬か分かりません。希望は極めて重要です。希望を持たない人は、お金や物をどんなに多く抱えていても死んだに等しいと思います。だが希望を持つと人生に生気が戻ってきます、どんなに貧しくても顔が輝きます。そして顔を輝かして生きることが生きているってことでしょう。
信仰者は、キリストに向かって、希望の光に向かって生きています。活ける希望を授ける神がおられるからです。また、この方は全ての人の救い主でいらっしゃるからです。神は、全ての人を救おうと待っていらっしゃる。大きく腕を広げて生命の源である神に帰って来るのを待っておられる。
今申し上げているのは、「わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです」という言葉です。
日本語でここを読むと、「全ての人」とはあるものの、それより「特に信じる人々の救い主である生ける神」という所に強調点を置いてしまって、「全ての人」という言葉がかすれてしまいがちです。「特に」と言っているんだから、「全ての人」とあるのは付け足しだと考えてしまう。日本語構文の陥り易い欠陥です。
だが元の聖書はそうではなく、「全ての人が救われるように」と神は願っているというのが主眼と取れます。
皆さん、神は私たちの家族も救おうと待っておられるのです。私だけが救われたらいいと考えて、家族の救いを諦めていないでしょうか。だが、神の願いは私たちの先を行っています。だから神が救おうと願っていらっしゃることの少なくても障害物になっちゃあならない。家族も救われるために祈り、自分を改めていかなければならない。もしかすると家族が私たちに改めて欲しいと思っていらっしゃることは、即ち神が私たちに願っておられることと同じ点かも知れません。それがネックになって家族が躓いていらっしゃるのかも知れない。そこでは、まさに自己の鍛錬が大事になります。
コリント前書9章のパウロの言葉をお読みして終わります。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。…競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。…わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。 」彼は自分の体を打ち叩いて…と語っています。彼はそのように生きたのです。私たちも自己を鍛える。その事を求め、祈っていきましょう。
(完)
2014年11月23日
板橋大山教会 上垣 勝
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