自己を鍛える


                   テゼでの5日間はこの民家で本当にリラックスできました。
                                                   (右端クリックで拡大)
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                                                   自己を鍛えよ (中)
                                                   Ⅰテモテ4章6-10節



                                (2)
  次に、「 俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。」と言っています。

  ご高齢の女性には申し訳ないですが、直訳すると、「卑俗な年寄り女がするような作り話」となっています。卑俗な年寄り女はどんな作り話をするのか気になりますが、今から2千年前です。ここにいる皆さんとは違います。もしかすると、迷信的な作り話や自分に気を引くための作り話を指すのかも知れません。いずれにせよ、人の好奇心を掻き立てるが何の益にもならない作り話でしょう。

  そして何よりも、「信心のために自分を鍛えなさい」と語るのです。聖書には、余り信心という言葉は出てきません。私たちの信仰は信心深かさの競い合いではありません。信仰はキリストの真実な贖いに源を発し、それによっていつも新しく更新されていきます。ですから信心深さはそれほど問題になりません。しかし、信心にも真理契機が全くない訳でなく、矢張りあります。

  聖書が言う信心は、信仰を生活の中で生きることです。日常生活の中で信仰が喜びとなって、初めて信仰が生きていると言えるからです。

  そのために「自分を鍛えよ」と語るのです。今日の題は、「自己を鍛えよ」としました。それはここで言われているのは、自己を鍛えること、自己の内面を鍛えること、信仰生活という精神面での自己鍛錬を主に指しているからです。堅忍不抜の信仰というものも含むでしょう。それは自己の内面的鍛錬抜きには生まれません。

  パウロが続いて、「信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。 この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」と語るところからもそれは伺えます。

  前の都知事が「エゴの力」とかいう本を出していますが、エゴの貫徹です。自己を鍛えるというのはそういうものとは違います。エゴイズムの氾濫こそ、今の社会の最も大きな問題であって、エゴが真理によって一度砕かれて、新しい自己が生まれなければならない。エゴのゴリ押しで行くなら、それが国際社会に一層暗雲をもたらします。

  真理によって砕かれ、新しくされた自我を育てることが肝要です。エゴの直接的な貫徹は危険であって、そうではなく一旦自我が砕かれ、否定媒介的に再生した自我が芽吹いて、育てられる。愛へと変化した自我。それが自己の中に生み出されなければならない。エゴの丸出しは危険で、エゴとは非連続が大事です。非連続の連続です。

  今、柿のシーズン真っ最中です。甘柿は美味しいですが、渋柿は、柿のシブが一旦否定されて変化して甘柿以上に甘くなる。それがまた美味しい。否定媒介的と申しましたのは、一旦エゴや自我が砕かれて、愛の甘さへとキリストによって造り変えられていく。それが「自己を鍛えよ」と言われていることです。

  「体の鍛練も多少は役に立ちますが」と語っている所から、パウロは体の鍛錬の大事さを知っていたのだと思います。今ならプールに行ったり、ウオーキングしたり、ランニングやストレッチも入るでしょうか。

  この間、石神井川沿いに「おおやま便り」を手渡しで配っていましたら、自転車のチェーンが外れて困っている主婦の方がいました。そばに行って直してあげて気づいたのは、チェーンがたるみ過ぎなんです。それにチェーンがかなり錆びている。油をさせばいいのですが、ご主人は一度もさしてくれないんでしょうね。

  鍛錬でないですが、人生の油が切れている人って多いんでないですか。おしゃれはしているが、かなり人生が錆び付いている。これじゃ何のためのおしゃれか分からない。

  今日の聖書は次に、「体の鍛練も多少は役立ちますが、信心はこの世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです」と語ります。

  宮本武蔵は「五輪書」で、鍛錬の鍛と錬を分けて考えています。「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とする。よくよく吟味あるべきものなり。」剣の達人は、晩年、その極意をこう記したのです。

  千日、約3年間の練習を積んで得た動きは、一生の技として身につく。百日では起こらぬ変化が千日の練習で起こる。だが万日、30年の練習で得たものは、千日の練習で得たものを質的に飛躍し超えていく。何日か、何十日かの短い鍛錬では真の鍛錬にはならぬ。また自己を鍛えぬ、鍛錬なきものは身につかない。こういう意味のことを言うわけです。

  自己を鍛えるとは、こういう意味内容を持ちます。パウロは若き伝道者テモテに、信仰の極意を勧めていると言えるでしょう。信仰生活の精神的鍛錬で、内面の自己を、自己の内面を鍛えよということです。


          (つづく)

                                             2014年11月23日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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