天に入れられた最初の人


                       テゼではこんな家に泊りました(3)
                                                    (右端クリックで拡大)
                               ・



                                                天国に入れられた最初の人 (下)
                                                ルカ23章32-43節


                              (3)
  「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」これは英語では色々に訳されています。「天のみ国にお入りになる時」、「王座に就かれる時」、「王として来られる時」、「統治される時」などです。その時に、「わたしを思い出してください」と願ったのです。

  この短い言葉に彼の万感の思いが込められています。これまで私のなして来たこと。なぜこの様な人の道を外れた道ならぬ悪の道に踏み入れてしまったのか。自業自得ですが、その理由や理屈をすべて含めて、私がたどってしまった曲がりくねった人生の裏道を全てお知り下さると共に、このような生涯を送ることになった私の魂の叫びを憐れみ、み国において私を思い起こして下さい。

  この誇張なしの全人生をかけての慎ましい彼の祈りに、イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束されたのです。

  楽園とは天国、パラダイスのことです。隠れキリシタンたちはハライソとか、パライソと言いました。パラダイスはエデンの園に通じますが、同じではありません。大山の踏切を渡ると「楽園」という大型パチンコ屋がありますね。神の国はチン・ジャラジャラの騒音やタバコの煙は立ち込めていません。そこには平和と恵みの光が立ち込めています。音楽の都ウイーンに行くと、天国にはバイオリンが満ち溢れているという諺があります。きっとバイオリンのいい音色が天に溢れているのでしょうかね。

  「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」恐れるな、私はあなたを決して捨てない。思い出すだけではない。あなたは今日私と一緒に天国にいるのだ。私はあなたを離さない。何者も引き離すことはできない。あなたは十字架の私の血潮で救うのだ。赦され難いその罪は拭われ、あなたは主なる神のみ前で晴れて赦されるだろうということです。

  あなたは天国の第1号となると言われたと言ってもいいでしょう。強盗を天国に招き入れると約束されたのです。しかも第1号として。

  この箇所は私たちにいったい何を語るのでしょう。それは、イエスの愛は人の思いの壁を遥かに超えていることです。イエスは全く人が立ち入れない場所にも入って行って救って行かれるのです。イエスはゲラサの狂人さえ、嵐の湖を渡って救いに行かれました。誰も近寄らないハンセン病の人を抱き抱えて癒されました。イエスの入っていけない所はどこもありません。たとえ地獄の底でも愛ゆえに勇敢に入って行かれます。また、天は画一的な所ではありません。この犯罪人は洗礼も聖餐式も受けたことがありませんが、そういう人間も、私たちの思いを超え、神はみ国に招き入れられるのです。

  ここには、神の無限の、永遠の愛が啓示されています。いかなる者の償いようもない罪。担ぎようもない重さ。その全生涯を受け止め、憐れみ、そういう人間とも共にいようとし、罪人にも神の愛を貫徹して罪を赦して神へと立ち帰らせ、迎え入れて下さる無限大の愛。その広大な果てしなく広い愛がここに啓示されているのです。

  マタイ福音書の最初にイエスの誕生の次第が書かれて、イエスはインマヌエル、それは「神は我々と共におられる」という意味であるとあります。インマヌエル、「神は我々と共にいます」ということは、神はキリスト教徒と共にいますという狭い意味ではありません。もっともっと広く、ある神学者が、「神は、愛し給うことの中で神であり給う。神の神的なことは、愛するという事から成り立っている」(K..バルト)と語っています。神が愛であるということは「愛するということから成り立っている」とは素晴らしい言葉です。神の愛は、罪によって真っ黒けに染まった犯罪人とも共にあろうという熱い愛であり、そのような熱い愛を持って神は罪を焼き尽くし、神に背いた私たちと共におられる限り、あなたとも、あなたとも、そしてあなたとも、いかなる隅っこに身を小さくしている、また隅っこに追いやられている人とも共におられます。「神は、愛し給うことの中で神であり給う」のです。神は愛を、ただ愛だけを選ばれる(Br.ロジェ)のです。

                              (4)
  私たちの教会墓地は武州長瀬の武蔵野霊園にあります。秩父の山々の連なりが間近に見える、小高い丘の見晴らしのよい場所にあって、毎年ツツジの美しい5月にそこで墓前礼拝をします。

  このお墓に、お名前は申しませんが、左腕のない在日朝鮮人の方が葬られているのをご存知でしょうか。この人は戦時中、朝鮮から日本に来て九州の炭鉱で働かされ、ダイナマイトの爆発で片腕が吹き飛ばされた人です。だが補償もない。私たちの教会はこういうふうに韓国・朝鮮人ともつながる広さを持っています。

  やがて流れ流れて東京にたどり着き、山谷の寄せ場で工事現場や船の荷揚げの人夫たちを業者に斡旋する手配師の仕事をして、その上前をはねて生きて来ました。韓国訛りの上、腕一本なければ肉体労働はできません。どんなに苦労を重ねて来られたかと思います。

  同胞の青年たちと一緒に、在日韓国・朝鮮人指紋押捺反対運動をするわけですが、一緒に運動するものの、「彼らは結局エリートですよ。知的満足もある。俺とは性が合わねェ」と言いながら、国会の前でのぼり旗を立てて運動していたのです。晩年には生活保護を受けながら指紋押捺反対運動を果敢にしていました。

  だが皆と運動しても、孤独で、孤独で仕方がない。誰も自分の本当の心を分かってくれない。祖国では日本から土地を没取され、日本名に改名させられ、仕方なく日本に来て、片腕を無くし、もう使い道がないと捨てられ、捨て犬となり野良犬となって生きた。誰一人構ってくれない。70才か80才になりながらも、あまりここでは生々しいことは言えませんが性の問題が解決できない。抑鬱(よくうつ)されて心が屈折し、暗闇と死の陰に住む民という言葉が聖書に出て来ますが、まさに暗闇と死の陰の下に住んでいた人です。人一人殺めたこともあったそうで、長く服役もしました。生活がどんなに荒れていたか想像に難くありません。

  色々申しましたが、こういう辛い情況に置かれた人たちの魂の叫びが、この犯罪人からも聞こえて来ると私は思います。その彼に、イエスは、「あなたは今日私と共に楽園にいる」と仰ったのです。

  この在日朝鮮人が亡くなっても、引き取り手がない。それで大塩先生の関係で教会が引き取って、教会墓地に入って頂いたのです。天でこの人のことも覚えて頂きたいからです。でなければ無縁仏です。生きた証拠がどこにもなくなります。この人の全てを肯定するのではありませんが、イエスはこういう人をも天で引き受けてくださると、主の愛に信頼して引き受けたのです。

  今日の犯罪人は何人の人を殺めたか分かりません。殺めるだけでなく、多くの人に苦しみを与え、故なき人にまで累(るい)を及ぼしたでしょう。詳細は分かりません。でも、イエスは、罪を隠さない彼の素直な慎ましい切なる祈りを聞かれて、今日、あなたは私と一緒に天国にいると語って、償いようもない負い目を持つ人間を神の国に迎え入れられると約束された。

  私たち自身を顧みる時、私たちは人を殺(あや)めたことはないにしても、誰かの心を傷つけ、精神的に殺めかねぬことをした人もいるかも知れません。自分は気がつかなくても、相手はそんな所に追いやられた場合もあるでしょう。だがそんな場合であっても、キリストに罪を告白して帰って来るのを待っておられます。神は愛です。厳しい裁きでなく、ただ愛のみであられるのです。

  祈りましょう。


      (完)

                                             2014年11月16日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・