ののしれば溜飲がさがると思って…


                  テゼではこんな素敵な民家に泊めていただきました。
                                                    (右端クリックで拡大)
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                                                天国に入れられた最初の人 (上)
                                                ルカ23章32-43節



                              (序)
  今日の聖書は、人間とは何か、社会とは何かを深く考えさせられる箇所です。それと共に、イエスという人物、神の愛について一層深く考えさせられます。

  私たちの心に耳を傾けると色々な声が聞こえます。否定的な方から申しますと、1つの声は告発でしょう。それは神の愛とはほど遠く、自分を神から引き離しかねない声であり、人と対立しかねない声です。告発しつつ、行き過ぎかと思って修正して折り合いをつけていますが、その声が心の中で巨大になる場合さえあります。

  それと共に別の声もあります。それに従えば自分の状況を正しくわきまえるように私たちを導き、相手の状況をゆっくりよく理解しようという声であり、耳を傾けて理解すると、思っても見なかった所に導かれて神も共におられたことを知ります。良い耳を持って聞けば、それは私たちを自由へと導く声です。

  私たちが礼拝に集まるのは、自分を超えた、思いもしない所へと導かれるこの声にお聞きするためです。

                              (1)
  さて、ここに十字架に付けられた2人の犯罪人が出て来ました。最初の犯罪人は、「イエスをののしった」とありました。

  彼が罵る前に、32節以下では、社会の指導者である最高法院の議員たちや兵士らが登場して、イエスを盛んに嘲笑し、酷い言葉で侮辱したと書かれています。他の福音書を見ますと祭司長や長老たちまで、民衆と共にイエスを嘲ったことが書かれています。

  ですから、この犯罪人はその尻馬に乗ったのでしょう。「お前が神の力を持つメシアというなら、自分を救って見せろ。どうしてお前自身の苦しみさえ和らげられないのだ。多くの病人を救ったというが、そうなら、俺たちも救って見せろ。」 告発の声に従ったのです。

  だがそれは、一種の引かれ者の小唄です。罵れば溜飲(りゅういん)が下がると思ったのでしょうか。だが事実は、彼は自分の運命を、自分自身を罵っているのでしょう。彼はそれに気づいていないかも知れないが、そうです。自業自得だが、人生の最後に臨んでも受け入れられない。ムシャクシャするわけで、感情を露わにしてイエスに思いっきりぶつけたのでしょう。

  だがイエスは彼に少しも逆らわれなかったのです。感情を逆なでするような愚を犯さず、― 私たちは夫や妻や家族にそんなことをしないと家庭は平和なんですが、それは今はよいとして、― 挑発に乗らず、なすままに、いわば自分の顔を打つままにして、黙っておられたのです。今日の箇所ではこの場面も印象的です。

  するともう1人がたしなめたのです。彼らは互いに杯を交わした仲でしょう。だが地上でいかに堅い盃を交わしても、公私色々な場面で何かの拍子で突然対立する場合がありますが、その一例です。

  それにしても、2人は太い釘で手足の太い骨を砕いて十字架に打ち付けられて、いっときは失神もしたでしょうが、その痛みに悶え苦しみ、苦しみ疲れて疲労困憊し、それでもまだ死ねない断末魔の苦しみの内にのたうち回っていた筈です。そのような状況にも拘らず、イエスという人に無関心でおれなかったのです。その愛と真実の生き様は、私たちの人生への1つの問いであり、挑戦であったからでしょう。

      (つづく)

                                             2014年11月16日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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