教会でのお葬式


     テゼの合唱の指導には入れ代わり立ち代わり色々な国から色んな素晴らしい指揮者が来てくれます。
                                                    (右端クリックで拡大)
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                                                  私たちの国籍は天にある (下)
                                                  フィリピ3章20-21節



                              (3)
  他の諸宗教や他の葬り方、最近は宇宙葬とかがあるそうですが、それに対抗してキリスト教葬儀をするのでなく、単純に主なる神に感謝するためです。私の生涯をあなたがお導き下さいました。このことをみ前で感謝致しますという信仰の表明です。

  私の魂はあなたをほめたたえます。私の魂の中心はあなたを慕います。私はあなたのものであることを感謝しますという事の、最後的な表明の機会としてキリスト教の葬儀をするのです。形式的な儀式ではありません。

  死人の中からのイエスの復活は、聖書の信仰の核心です。これを排除すればキリスト教は成り立ちません。イエスの復活は、神の行為によって死の力が最後的に克服された事件です。ですから、第1コリント15章で、キリストがもし復活しなかったら私たちの宣教は空しい。復活がなければ、たとえこの世でキリストを信じて眠りについた人々も結局滅んでしまったことになる。単にこの世の生活でキリストに望みをかけているなら、最も惨めな者だと語っているのです。

  死の力を克服して復活した方が、み国で私たちをお待ち下さる故に、死を恐れる必要はないのです。私たちは死や無に向かって生きているのでなく、キリストに向かって生きているからです。根源的な意味で国籍が天にあり、それに向かって生きているから死を恐れなくていいと言えるのです。

  コリント15章は、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』」と語ります。

  「朽ちるべきものが朽ちないものを着る。」これが起こる時、神の恵みによって私たちは変えられるのです。努力して変わるのでなく、神の恩寵に基づいて、死ぬ者が死なない者に、朽ちる者が朽ちない者に変えられるのです。それが死が勝利に飲まれてしまったと語られていることです。

  また、「私たちの国籍は天にある。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、待っている」とありますが、キリスト者とは待つ人です。私たちはキリストを待ちつつ世を去るのです。このお方を待ちつつ進むのです。救い主として待つ方が、最後に「君の国籍は、私の国にありますよ」と言って下さるからです。

  ですから、教会にいらっしゃっていないご家族に対して、私はこう生きて来ました。私の求めて来た生き方を、どうかお知り下さい。私のことを、私の魂と私の心の中心的なものをもし大事に思って下さるなら、私の最後の葬りをキリストのみ前で執り行ってくださいということです。人生最後のパーフォーマンスとしてキリスト教葬儀を開催するのではありません。人生を飾るデコレーションではない。

  御家族がキリスト教信仰を持っていらっしゃるかどうか、また御家族がこの信仰をもって執り行って下さるかどうかを求めているわけではありません。そうではなく、私という一個の魂を持つ者はこうでしたという最後のしるしの機会として、私を葬ってあげてください。それがキリスト教葬儀の基本であり、骨子です。家族に葬儀について説得的に言えるのはこの点においてです。

  いつかの役員会で、教会の役員とは何をする人だろうかということが話題になりました。礼拝の司式をする。色々な集まりの担当を担う。そういうことも実際的にはしています。しかし根本的には、役員とは、神がその方をお選びになった訳ですから、今日の聖書との関連で最も中心的なことを申しますと、その方が心の底から、「私たちの国籍は天にある」、「我が国籍は天にあり」、これを信じますと、強く言えば、命を懸けてこれを信じますと、そこまで信仰的に証するようにと神が選ばれた人だと言って良いでしょう。むろん役員でない方もそういうことへと進んでいますが、役員の方も、そうでない方も、牧師も、今はまだ心の底からそこまでは言えなくても、皆そういう告白へと神によって召されています。

  そうすることによって教会の他の人たちに信仰を勧め、模範となるためです。そうです模範です。少し前の17節で、パウロは、「私に倣う者になりなさい」と言っていますし、「模範として歩んでいる人たちに目を向けなさい」とも語ります。

  役員の方を例に取って申しましたが、単純化して申しますと、ここに集う全ての方がただ目をキリストに向け、み国を仰ぎつつ地上の生に愛と責任を持って生きることです。

  先程、子どもたちへの祝福の前に、「一粒の麦」の話と「幸せの王子」の話をしました。これは子どもにだけお話したのではありません。私たち自身が、一粒の麦として、地に落ちて死ぬこと。すなわち真心を込めて愛に生きること。そこに自分の生きる姿勢を置くことが、やがて私たちの葬儀でも証されていくことになるしょう。

  完全になったとか、そんな境地に達したとか、そんなお世辞を言われたくありません。私たちの悩みや解決できない諸々の悩みを全て包み込み、「あなたの国籍は私の国にありますよ」と最後に優しく言って下さるキリストに心を向け、体を前に伸ばし、救いを捉えようとして生きようではありませんか。この段落の最初を後でご覧ください。パウロキリスト者の完全というものを、完成の姿でなく現在進行形の姿で生き生きと捉えています。

          (完)

                                             2014年11月9日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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