帯が腐っていました


バス待ちの高校生。「タバコかい」と聞いたら、「そうじゃあないよ、これハーブの一種なんだ」と言って、液体を見せてくれました。気持ちが落ち着くそうで、今フランスの青年たちの間で流行っているんだそうです。あと数年したら日本でもやたらと見かける光景かも知れません。
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                                                  私たちの国籍は天にある (上)
                                                  フィリピ3章20-21節



                              (1)
  今日は、前の写真にある皆様や信仰を共にした28人の方々を覚える永眠者記念礼拝ですが、今日は礼拝後に全体懇談会があるので、そのためここではキリスト教の葬儀について申し上げることになっています。ただ、その前に旧約のエレミヤの話をいたします。

  預言者エレミヤは、アナトテの祭司の息子で南王国ユダの預言者となった人です。今から2600年ほど前です。

  ある時、主なる神から、700キロほど離れたユーフラテス川に行って、岩の裂け目に帯を隠しなさいと命じられます。上流の岩がゴロゴロしている谷間でしょう。彼は言われた通りそこに行って隠します。

  その後、何年か経ち、主は、再びユーフラテスに行き隠しておいた帯を探し出せと言われたのです。そこで行って探し出したところ、帯は甚だしく腐って使い物にならなくなっていたのです。

  その時、主は、「彼ら、ユダの人々の傲慢と不信仰を私は砕く。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった。人が帯をつけるように私は彼らを私の帯とした。わが名声、誉れ、威光を示すものにしようと思ったが、彼らはこの帯のようになってしまった」と言われたのです。(13章)。

  主が誉れとされるのは、人間国宝が織ったような立派な帯ではありません。天皇に献納されるような帯でなく普通の市井の人々が普段に付ける帯です。その帯は綿(めん)でも、今日で言えば化学繊維でも良いが、帯の使命を果たしていなければならないのであって、腐って使い物にならないのでは話にならぬということです。

  エレミヤが語るのは、ユダの人たちは、主の前に人間としての生き方や信仰のあり方で襟を正さなければならないということです。自分はこれでいい。神は愛だから、どんな私も受け入れて下さる。卑しく、愚かな私も受け入れて下さる筈だという信頼は大事でしょう。

  だが、だから私はどう生きてもいいのだ。努力もいらない。悔い改めもいらない。チャランポランでいい。キリスト者は襟など正す必要はないというのとは違います。エレミヤの時代、預言者は偽りの預言をし、祭司は富をかき集め、身分の高い者から低い者に至るまで利を貪り、そんな中で、「主は何もなさらない。我々に災いなど来ない」と語り合っていたのです。そうなればもう、私たちもユダの人々も傲慢でしょう。エレミヤ書を見るとユダの人たちはそのようになっていました。そうなら、甚だしく腐って使い物にならず、誉れどころか、神の名を汚すことになると言うのです。

  私たちは主に愛されているのですから切磋琢磨すべきです。切磋琢磨とは硬質の極めて硬い珠や石を磨いたり削ったりするように、我が身を磨いたり削って、人間として喜びを持って鍛錬していくことです。

  最初から厳しいことを申しましたが、キリスト教は甘やかしの宗教でも、甘えの宗教でもない。そういうふやけたものでないということを言いたいからです。それは私たちが受けたキリストの恵みが非常に莫大で、絶大な宝であるからで、イエスは、神の国は高価な真珠を発見した商人が持ち物をすっかり売ってそれを買うのに譬えられると言っておられますが、そのような犠牲も厭わないものでありたいと思います。

                              (2)
  さて先程の聖書に「わたしたちの本国は天にあります」とありました。前の口語訳は「わたしたちの国籍は天にある」と、国籍となっていました。これは国籍でも、本国、故国、母国、いずれでも同じです。ある英訳は、「私たちは天国の市民である」となっています。

  そうです。キリスト者は地上にあって、自覚しているかいないかに拘らず、根本的には天を指さして生きています。私でなくキリストを見てください。私でなく神を仰いでくださいという生き方です。私たちの国籍が天にあるからです。

  地上の日本国民、アメリカ国民、中国国民などというのは仮のものであって、地上にある時には地上の国籍は一定の働きはしますが、根源的にはこの国籍は人間が便宜的に作った産物です。

  それはあのエレミヤの帯のように、何かの拍子で腐ってしまいます。使い物にならなくなります。そのことは2千年、3千年の世界の歴史の変遷を学べば分かる筈です。日本は島国で、これまでは「さざれ石の苔のむすまで」と歌って、変化が少なかったですが、今後何千年の単位で見れば決してそうは行かないでしょう。しかも、「さざれ石の苔のむすまで」と歌われるようになったのはつい明治以降のことであって、それ以前は誰も見向きもしませんでした。

  今、申し上げたいのは、人間が作ったものである国籍は仮のものだということです。それに対して、「わたしたちの国籍は天にある」ということ。これは永遠的な意味であり、永久に変わらぬ真実です。日本人であろうと、その人が結婚をしてアメリカ人になろうと、「わたしたちの国籍は天にある」。この事は、キリスト者にとっては変わりません。世がどんなに移っても、天の国籍は地上の国籍を超えています。同様に、私たちの名は天に刻まれている。この事実も変わりません。

  単に名が刻まれているだけでなく、今日の聖書は、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」と語っています。「卑しい体」とは、若い時は思わないですが、年を取るにつれ私たちはつくづく思います。私たちの哀れな、たるんだ、悲惨な、浅ましい、不快な体を指しています。これ以上言うと嫌悪感が起こります。絶世の美女として一世を風靡した女優さんが、年を取り、人前に姿を見せないということが時々起こりますが、それは「卑しい体」を知ったからでしょう。

  だが、「卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。」単に肉体のことでなく霊的、精神的なことの比喩的表現ですが、いずれにせよ、キリストの終末的な救いの莫大な恵みにやがて与ることを信じる故に、私たちはキリストをほめたたえ、同じ心で教会で葬儀を行うのです。ですから葬儀は、主をほめたたえて讃美歌を歌い、聖書を聞いて説教があり、主を賛美する普段の礼拝とほぼ同じ形です。地上の最後を礼拝で締めくくるのです。

          (つづく)

                                             2014年11月9日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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