愚かさに徹する


              クリューニーで行われたナチスへのレジスタンスの記念碑。
                                                    (右端クリックで拡大)
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                                                    愚かさに生きよう (下)
                                                    Ⅰコリント1章18-31節



                              (3)
  話は飛びますが、私たちは今、「おおやま便り」を1万枚印刷し各戸に配り始めました。これも愚かとしか言えない行為だと私は自覚しています。もしかすると、郵便ポストに入れた「おおやま便り」は、見ないで捨てられるかも知れません。見ても、別に心を動かされることはないかも知れません。

  これは、「宣教の愚かさ」の行為です。イエスが愚かさに生きられたのなら、神が愚かさに賭けられたのなら、私たちも少しぐらいは愚かであってもいいのでないかという思いです。

  皆さんの体重はどれ程ですか。女性は40キロほど。いや50キロありますか。30キロの方や20キロの方もここにおられます。男性は60キロ、70キロ台の方もあるでしょうか。まさか100キロの人はいないでしょう。お相撲さんではありませんよね。1万枚というのは、重さが何とジャスト100キロです。運送会社の方が、手押し車で教会前の坂が上がらないで苦労していたそうですが、当たり前です。私たちは、この100キロを配ろうとしています。何か可笑しく、愚かに見えます。

  それに、今年は配布前に1つの躓きがありました。奥村さんが誤字を発見されたのです。しかも泣きっ面に蜂で、他にも誤字が見つかりました。一時は配布をよそうかと思いました。でも100キロをどうするんです。それは思いとどまり、諦めて誤字のあるまま配ろうと思いました。妻が、小さい間違いだからこのままで配ろうと言ってくれたからです。

  誤字の発見はバザーの翌日でした。皆、余りに疲れました。私もクタクタでした。だから、その日は、仕方ないこのまま配ろうと思ったのです。

翌朝、起きると、聖書に、「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」とあるのです。元気になり気分も爽快。1万枚をパソコンで1枚ずつ訂正することが正解だと思ったのです。それで、パソコンで一枚ずつとは気が遠くなりますが、その日から訂正を始めました。まさに愚かです。パソコンが壊れるかも知れないのに。

  訂正は、間違いを認めることでもあり嫌なことです。だが訂正をしながらこんなことを思いました。このリーフレットを手にして訂正に気づき、この一枚一枚の訂正について考える方が地域にいらっしゃるなら、その方こそ教会に来ていただきたい方です。なぜなら、人間の弱さと愚かさ、それらを恥ずかしくても認めつつ、それを乗り越えてめげないあり方に気づかれる方ですから、キリストの十字架の愚かさにも心動かされるに違いないと思うからです。私はそう思うと、1万枚を、最後の1枚まで訂正するのが喜びとなりました。気づく方が一人もいらっしゃらないかも知れないのに、です。

  イエス・キリストは愚かさに徹されました。愚かさを避けちゃあなりません。愚かさは、誠意を込めたり、誠実であるから生まれます。子育ても愚かさがいっぱいです。一生懸命に頑張って、その挙句、スネに傷を持たないでは親になれません。たいていの親は忸怩(じくじ)たる思いで親業をしています。

  だが、神は愚かで無きに等しい者を「あえて」選ばれたのです。「あえて」とあるのは、そのような者を通して神は栄光を現わそうとされるからです。

  ノアを選ばれたのは彼が愚かであったからです。賢く、立ち回りが上手ければ山の上に舟など造りません。エレミヤが選ばれたのは、彼も愚かだったからです。賢ければ、頑固に悔い改めないエルサレムの人々に、とうに愛想を尽かして神の言葉を語るのをやめたでしょう。

  先週申しました祝福についてもそうです。「あなたに祝福があるように」という思いで生きている人は少ないでしょう。東京に学者と言われる人が何人おられるか知りませんが、「あなたに祝福あれ」という気持ちで学生や同僚や友人仲間に接している人は何人あるでしょう。自分に祝福があるように、自分に誰かが何かいいこと言ってくれないか、何かをしてくれないかと考えて生きていないでしょうか。しかし学問はなく、地位は低くても、「あなたに祝福が留まりますように」という気持ちで生きる人があるなら、それこそ本当に貴重です。そんなことは愚かかも知れません。だが愚かさを恐れる必要などないのです。キリストがそういうふうに生きられたのです。

  何事でも責任を持って担えば、弱さと愚かさと傷が必ずつきまといます。だがそのような愚かな自分に挫けないで、むしろそのような者を主はお用い下さることを信頼して進みたいと思います。

  神は愚かさを用いて人を救うことを喜びとされたのです。そのことを愉快なこととされた。神は、「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者をあえて選んで」、神の福音を世に告げられるのです。恐れる必要は何もありません。


       (完)


                                             2014年11月2日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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