あえて愚かな者を選ぶ


                         クリューニーの町のめがね橋             (右端クリックで拡大)
                               ・


                                                    愚かさに生きよう (中)
                                                    Ⅰコリント1章18-31節


                              (2)
  次にパウロは、「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる」と語り、「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」と述べています。哲学者や論客への一種の挑戦です。

  パウロは、人間の知恵によって人は神を知ることはできなかったと語るのです。私たちは自然現象や社会現象を通して、神はいるかも知れないと思ったりいないかも知れないと思ったりしますが、神がおられる決定的証拠や神がおられない証拠を出すことは誰もできません。

  人の知恵、科学や哲学によって神の存在を証明できないのです。パウロはその事を指して、「それは神の知恵にかなっています。」すなわち、「世は自分の知恵で神を知ることができないように、神がされたのです」と言うのです。

  パウロは更に論を進め、21節で、「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです 」と語ったのです。

  12節で、「十字架の言葉は滅び行く者には愚か」と申しましたが、ここでは、神は十字架の宣教という愚かな手段によって、信じる者を救おうと決意されたと言うのです。ある英訳は、「神は、福音の愚かさという手段によって信じる者を救うことを喜びとされた。」あるいは、「愉快なこととされた」と訳しています。

  神は、知恵を誇る者たちに対して、十字架という愚かな福音によって神の愛を語ることを喜びとされたというのです。ギリシャ人の知恵とあるのは彼らの叡智だけでなく、人類の様々な高尚な叡智も含みます。だが、神は「賢い者の賢さを意味のないものにする」ために、愚かな手段を通して語ることを誇りとされたのです。

  それだけでなく、26節以下では、コリントの教会に入って来た人たちの、信仰の初期の情況を思い出させながら、「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」と語っています。

  初期のキリスト教は身分の低い庶民の宗教として広まりました。キリスト教の力は、支配者の宗教でなく庶民的宗教である時、その力が最も発揮されるのです。それはイエスが貧しい人や様々な病気で苦しむ人たちの友になって行かれた事からも分かります。

  この箇所は、前の口語訳聖書では、「あえて」という言葉が加えられていました。「神は、知者を辱めるために、この世の愚かな者を選び、強い者を辱めるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」

  知恵ある者や力ある者、地位のある者の誇りと傲慢を挫(くじ)くために、あえて無学な者、無力な者、無きに等しい者をあえて選ばれたのです。

  十字架に吊るされて殺されることは、滅びであり、敗北であるだけではなく、無残な失敗の象徴であり、嘲られ、捨てられる者の象徴であり、呪われることや愚かさの象徴です。神は、この愚かさを通して神の愛を伝える道を選び、それを喜びとされた。どんなに知識を尽くし知性を動員しても、神を知ることができないようにされ、「宣教の愚かさによって、信じる者を救うことを喜びとされた。神はそう決断された」と言うのです。

  パウロは非常に大胆に語ります。彼は17節の中頃で、「キリストの十字架が空しくなってしまわぬように」と言っています。「空しくなってしまわぬように」とは、十字架の出来事の鋭さが鈍ってしまわぬようにという意味です。切っ先が丸くなっちゃあならない。十字架の事件が本来持っている鋭さを、その鋭いままに告げ知らせるのが自分の使命であると述べているのです。

  実際、イエスの愛は実に愚かです。しかし愚かであるがゆえに本当の愛です。今日の箇所はヨハネ福音書では、「神はその独り子をたまうほどにこの世を愛して下さった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と語られています。誰がかわいいひとりっ子を見知らぬ人に与えるでしょうか。神はその独り子を与える程とは、実に愚かです。神はそのような愚かな、熱い愛をこの世に注いで下さったのです。

  これ以上に真剣で、真実で、深い愛はありません。誰ひとり十字架の愛に気づく人がないかも知れないに拘らず、磔(はりつけ)にされて死んでいかれたのです。無駄になるかも知れない。しかし人の罪を取り除くという、人類1人1人に不可欠なことを世界の片隅で密かにしていかれたのです。人類はそんなこともちゃかし、すっかり投げ捨ててしまうかも知れないに拘らず、神の愛を示すために磔になっていかれました。神の、キリストの宣教の愚かさはここに極まっています。

       (つづく)


                                             2014年11月2日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・