教会は肝っ玉母ちゃんであれ


クリューニー修道院フランス革命によって粉々に砕かれました。歴史に残るこの大修道院がしばらく前から修復再建されています。
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                                                     食生活と信仰 (中)
                                                     Ⅰテモテ4章1-5節


                              (1)
  この手紙は以前に申しましたが、初代教会からかなり発展した2世紀初め頃、西暦100年代初頭の教会を反映しています。当時、教会の中に異端というか、「異なった教え」が入り込んで来ました。1章にそういうことが記されています。今日の所でも、「惑わす霊」とか、「悪霊どもの教え」というふうに言われているものです。

  その影響で、その教えに「心を奪われ、信仰から脱落する者」もあったようで、この手紙はそうした教えに惑わされず、テモテが健全な教えを説くことによって、信仰者たちが本来の落ち着いた健全な信仰生活をするようにと勧めています。この時期は、教会制度が出来つつあり、3章では、監督や奉仕者はどういう人であるべきかが説かれ、また教会というのは、「真理の柱であり土台である生ける神の教会」であると述べられていました。

  さて今日の所では、こうした時代状況の中で、「霊」すなわち神の霊は時代の問題性を明察して、何が問題であるかを私たちに明確に語っておられると語るのです。それが、「霊は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます」という言葉です。

  ここで言われているのは、「霊」には、真理である神の霊と、惑わす霊や悪霊など、真理でなく虚偽の霊があることです。

  これらの惑わす霊や悪霊は人間を引きつける力を持っている。だが、それに心を奪われる人たちを最後的には破壊し、人間や社会を混乱に陥れる。人をたぶらかす霊であるからです。

  「この事は偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされる」とありますが、最初は善良に見えますが、偽りが含まれている。善の仮面をかぶっているが、内側は支配欲や権勢欲、貪欲で満ちているということです。

  ここで、「終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ…」とあることに目を留めてみたいと思います。なぜ「終わりの時には」、そうなるのか。

  終わりの時には、誰しも必死になるからです。必死になるのは、死を恐れるからです。またあわてて、何かにすがって、いや、何でもいいからすがって、救われようとするからです。マラソンでも最後のデッド・ヒート、死闘に近い追い込みの時が一番必死です。

  この「終わりの時」は世の終末を指しますが、当時、世界の終末は近いと標榜して、強引に信者に引き入れるグループがあったのです。

  しかも、彼らは「惑わす霊」と言うか、リアルに恐怖を掻き立て、上手く人を手玉に取って、「信仰から脱落する」ように仕向けるというのです。

                              (2)
  皆さん、キリスト教が説くのは終末的な救いです。ただ、終末が近いと言って脅すのとは違います。「キリスト者の完全」という本があります。それを望みますが、地上で完全な人になれる訳がない。むしろ完全になったと思ったら、そこに落とし穴が待っています。すなわちとんでもない傲慢です。

  今から1,600年程前、アウグスティヌスという人は、ドナティスト派の人たちとの30年以上にわたる論争を続けながら世を去ります。巨大な思想家であり、キリスト教徒でしたが、そういう生涯を送っています。

  ドナティストの主張は、教会の聖さは、それを構成する人間の人間的な神聖さ、聖性に基づくというものでした。それで人間的に汚れた人がいれば、その教会はキリスト教会でないということになります。そのようにして教会はこの世から聖別され、区別された、神聖な人たちによって成り立たねばならないと考えました。キリスト教の純粋を追求したのです。キリストの血潮によって贖われた、救われたということはそういうことだと主張したのです。

  しかしアウグスティヌスは、そうではない、教会の聖さは、それを構成する人間の神聖さによらず。構成する人間の聖性に基づくのでなく、キリストに基づく。キリストの血で贖い取られたから神聖なのだと説いたのです。教会の聖さの根拠は人でなく、キリストにあるということです。

  彼は、現実の教会は完全な聖さを持っておらず、むしろ罪や悪をその内に持っている。すなわち、「善悪混じり合った教会」。それが地上の教会だと語るのです。しかも、これは憂うべき事でなく、この世にある教会の本質に関わるものであると言うのです。(宮谷宣史「アウグスティヌス」)

  イエスは麦と毒麦の譬えを語られました。この世は麦と毒麦が混在しています。教会もまた混在しているのです。教会を清くしようとして、毒麦を引き抜こうとすると、良い麦も一緒に引き抜くことになるのです。だが「惑わす霊」は、聖なる者が罪ある者と共にいることはできないと主張するのです。潔癖主義です。だが良い麦と毒麦の根は地中で絡まっているのが世の真実であって、それを無視した理想主義はどんなに高尚であっても現実的ではないのです。

  彼は説教で、こう述べています、「…我々はこの世にある限り、決して良い境遇にはいない。…涙するような苦しいことがある。しかし、神を仰ぎ見るとき、涙が拭われる。…希望を抱きつつ、我々は悲しみ、泣き、生きていく。…人間の意識の内奥には、人の見ることのできない孤独がある。そこで希望を抱き生きていこう。…外的なものは全てこの世の暴風や試練によって流されてしまう。人間には内的な孤独がある。孤独の中で自らの信仰を問い直そう。…」

  色々問題を持ち、孤独の中にいる私たちに出会って下さる神です。人に言えない色んな罪を持ち、苦しんでいるのが私たち個人であり、キリスト者もそうです。決して完全ではない。そのことに素直になり、素直になった所でこのお方に出会い、罪赦され、慰められ、導かれ、希望を抱いて生きていこうと励ますのです。

  ところが、「惑わす霊」は、それではいけないと言うのです。救われるためには不完全であってはならない。完全でなければならない。そのために、善悪入り混じった状態から、完全に脱却しなければならない。仏教的に言えば、解脱しなければならない。自力的にです。まるで禅的な解脱です。さあ、私たちがその道を教えてあげましょう。そう言って誘うのです。

  ですから、教会に来るのはこんな人でなければならない、あんな人でなければならないと、そんなことを余り神経質に考えていると、返ってこちらが毒麦になりかねないのです。キリストの前に立ちはだかって、ある人を通し、ある人を通さないということになりかねません。教会は母なる教会と言われるように、大らかに、神が最後的に働いて下さることを信じて、神様が働いてくださる余地を充分空けていなければならないのです。教会というのは肝っ玉母ちゃんであるべきです。

  自分のことを考えても、私たちは完全な良い麦と言えません。心の中に毒麦も混じっていませんか。毒麦であって良いと言いませんが、良い麦であろうとしても毒麦が混じっているのが私たちです。それを否定すれば偽りになるでしょう。

  でも、こんな麦と毒麦が混在している人間をキリストの血で贖い取って下さった。ここに恵みがあります。希望が輝いています。


           (つづく)

                                             2014年10月26日

                                             板橋大山教会 上垣 勝



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