35年前の日記


  クリューニでは中世に栄えた修道院を相棒が見学し、私は前庭のレストランに入って疲れた体を休めました。
                                       (右端クリックで拡大)
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                                                     ロトの妻を想う (下)
                                                     ルカ17章22-37節
        


                              (3)
  イエスはこのようなことを語り、弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と聞くと、「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」 と言われました。

  難解な言葉です。ここも元の言葉に帰って考えますと、死体でなく、「体があるところにはハゲタカが集まる」となっています。ただ、体という言葉に死体という意味も含まれるのでこう訳されたのです。ですからこれは、体があるところ、人間がいる所には、いつ、どこでもハゲタカが集まると取ってもいいでしょう。そう取ると意味に広がりが生まれます。

  私は、イエスが言おうとされた意味の前半しか語られなかったのでないか、あるいは前半しか記録されなかったのでないかと思います。後半は語っておられない。だから難解になっていると思うのです。人間のいる所には命を狙ってハゲタカが集まる。だが、イエスは私たちをハゲタカから救い出される。だからイエスの苦難と死、十字架が重要になるのです。

  なぜそういうことを言うかと申しますと、マタイ福音書18章21節以下に、ペテロが、「兄弟が私に罪を犯した時、何回赦さなければならないのですか」と尋ねた時、イエスは、主君と償いようのない不始末をした家来の話をなさって、「償い方なかりしかば、憐れに思い、ことごとくその負い目を赦したり」と、文語訳ですが、語ったと書かれています。

  キリストと私たちの関係はこの言葉にことごとく尽きます。もしそうなら、私たちがこれまで犯したぬぐい去れない罪も、咎(とが)も、過(あやま)ちも、十字架の憐れみによってことごとく赦される筈です。

  イエスは今日の再臨の話の途中で、人の子の苦難と十字架を話されたのは、死体のある所、体がある所、人間がいる所には、いつどこでもハゲタカが体を狙って集まるが、イエスは私たちをハゲタカから救い出す方である。今日の最後はそのことを述べていると言っていいでしょう。

  ですからこう言っていいでしょう。「二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。2人の女が一緒に臼を引いていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」またロトの妻のように、私たちは後ろを振り返ることさえ起こるかも知れない。いや、しょっちゅう振り返ってばかりいるのではないでしょうか。関東大震災で多くの人が荷物を大八車に積めるだけ積んで逃げました。だが沢山衣類を積んだおかげで、逃げ遅れたり、火がついて、自分にも火がついて沢山の人が焼死しました。

  それが私たち人間です。欲に駆られと申しましたが、これからも生きるためには何かが要ります。ロトの妻のように後ろを振り返るのが私たちです。誘惑にかられ、ちょっとだが後ろを見たい。塩の柱になるかも知れないのが私たちです。呵責なき裁きが待っているのが私たちです。だが、たとえ塩の柱になっても、イエスの死、贖いの死が私たちを覆って、贖って下さらない筈がありません。

  「死体のあるところには、ハゲタカが集まる。」だが、そこにイエスもおられるのです。十字架の主がいて下さる。なんと価なき、高価な恵みでしょうか。その高価さに驚きます。

  たとえ償い切れないことが起こっても、主キリストは、「償い方なかりしかば、憐れに思い、ことごとくその負い目を赦したり」と、ご自分の十字架と引き換えにお赦し下さるだろうということです。神の御独り子と引き換えにお赦しくださる。マタイ18章の話は、1万タラントンの負債が赦された僕の話です。今に換算すれば6000億円以上にもなる高価な赦しです。

  イエスの苦難と死が私たちの罪を包み贖って下さるのです。憐れみ豊かに扱って下さるのです。そのためにこそ、「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け」ねばならないと語られたのです。

  人生に失敗や過ちがあってはいけないのでしょうか。そうではありません。失敗が大事です。失敗こそ大事です。今回のノーベル賞につながった、あの青色発光ダイオードの発明は、偶然の失敗が契機で見つかったと言われているではありませんか。たまたま高温にする炉の調子が悪く温度が低くかった。そのためにこれまで決して作れなかった窒素ガリウムの均質の膜が出来て、青色発光ダイオードが生まれるきっかけになったというのですが、失敗や過失、罪や過ちがキリストに用いられて、私たちも新しい世界へ導き入れられ、新しく飛躍を遂げていくということにも通じます。

  イエスの贖い故に、たとえ御嶽山で突然の死にあっても大丈夫です。「お母さん、ありがとう」と最後のメールを残して亡くなった娘さんがいたそうですが、たとえ突然の死でも、そのことは残念ですが、最後の感謝を心に持って息を引き取ればいいのです。

  ですから、人の子の日、終わりの日は、十字架のキリストが私たちのために働いてくださる希望の日です。その日は喜びの日、感謝の日、歌い踊る日になるでしょう。

  私は今回のテゼの研修で、思いがけない大きな喜びを得ました。ある日、同じグループになったハイデルベルグから来ていた40代の女性が、昼の礼拝からの帰りに歩きながら、あなたのことがブラザー・ロジェの日記に書かれていると言ったのです。私は「嘘だろう」と笑い飛ばしました。そしたら彼女も一緒にいた数人も笑いながら、本当なのよと言って、皆口を揃えて言うのです。まだ英語に訳されていないので、彼女が英語に訳して見せてくれました。そこに、35年前にテゼに初めて行った日のことが記されていたのです。驚きました。

  日本から来たマサルをブラザー達の夕食に招いたこと。マサルが語ったこと。そしてブラザー・ロジェさんが私に語ったことが書かれていたのです。ただ、マサルMASARUじゃあなく、マッサルMASSARUとなっていました。向こうの人にはそう聞こえたんでしょうかね。彼らの前で、歩きながら思わず涙が出て止まりませんでした。ブラザー・ロジェは日記の中で私のことを覚えていてくれていたのに、私は知らなかったことに嬉しさがドッと込み上げて来たのです。

  イエス様も私たちを覚えて下さっています。今はその事は分かりません。本当だと言われても疑うでしょう。だが、人の子の日、イエスの再臨の日にそのことが明らかになり、思わず目頭が熱くなり、きっと涙が出て止まらないほどの喜びの日、歌い踊る日になるでしょう。

       (完)

                                              2014年10月12日


                                              板橋大山教会 上垣 勝



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