パリにある地下墳墓


                          下に記した通りです。
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                                                    神の国は今ここに (中)
                                                    ルカ17章20-21節


                               (3)
  子どもにとって家族は、そこで愛情を持って育てられる場です。大人に見守られて子供は育まれます。少し大きくなってもそこに帰って来れば安心して迎えてくれる母港のような場所です。独り立ちするまでは家族はそういう母港の働きをします。だが一度巣立てば、彼らは元の家族とは違ったあり方で世界に飛び立って行くでしょう。

  今回の旅の中で、改めて家族という共同体は幻想だと思いました。共同体幻想です。自分の子どもといえ、親から離れ、絶対親の自由にならない存在になります。正反対の思想さえ持ちます。それが正常です。

  人は皆、真の源は神に帰属します。神は子どもを一時的に両親や家族に託しますが、一人一人は神の下にあるので独立した魂の尊厳を持っているのであって、彼らの魂も心も親は支配できないということです。親のものではありません。

  だから、ある年齢に達すれば突き放していいのです。突き放さねばなりません。それで子離れも、親離れもできます。ところが支配できるかのような錯覚が、しばしば子どもを不幸にし、多くの問題を生じさせます。2ヶ月前の長崎・佐世保で起こった女子高生による凄惨な同級生殺害事件や先週北海道で起こった女子高生による母親と祖母の殺害事件でも、背景に親の厳しすぎる過干渉。子どもを親の価値観に厳しく従わせようとした時に起こっています。

  本質的には見守ることしかできないのに、一線を超えて厳しく干渉し命令して行く。そこに問題の根が潜んでいます。

  今、私は、人はそれぞれその真の源は神に帰属すると申し上げました。そこに本来、人の喜びがあり、慰めが生まれる元があり、自由な溌剌とした行動が生まれる源があるのです。

  神の国はあなた方の只中に来ている。あなたと神との関係こそ、親子や家族の相対的関係をはるかに超えた絶対のものです。夫婦の関係も超えています。これこそ私たちをあらゆる束縛から解き放つ絶対的関係であり、神との関係を失えば人は皆、自分の根源を失って迷子のようになります。人や物に囚われたり、地位に囚われたり、反対にいじけたりしまいがちです。魂が放浪しているから何物かにしがみつきたいのです。何ものかを神にしてしがみつくのです。神を信じないと言いつつ何かを神にします。そこに神なしに生きれない人の姿があります。

  商売がうまくいっている。家内安全であると言いましても家族関係は究極の絶対的なものではありません。

  どうしてそこまで言うのか。この思いを強くしたのは、今回、パリのカタコンブという地下墳墓を見学したからです。大都市パリの地下、螺旋階段を百数十段降り、3、40mの地下に無数にトンネルがあって、そこに何と600万体の遺体が埋葬されているのです。250年前から百年程かけて作られた地下の無縁墓地です。ですから遺体自体は400年、500年前のものかも知れません。

  私一人ぐらいしか訪ねないだろうと思っていたら、百人以上が青年も老人も男女を問わず、長い列を作って入場を待っていて驚きました。地下に降り、高さ2m50程のトンネルを延々十分ほど歩いて地下墳墓に着くと、トンネルの両側に頭蓋骨と大腿骨などで整然と垣根風に壁が作られ、方々に枝分かれして何キロに及ぶか知れません。延々続きます。骨は枯れていますが、全て生の頭蓋骨と手足の骨です。手足の骨は冬の薪のように束ねられて、横でなく縦に、奥方向に積み上げられ、丸い頭蓋骨が下から50cm程の所と1m程の所に、列を作って並べて嵌め込まれていました。

  頭蓋骨も大腿骨も手で触れることができます。1つ1つの頭蓋骨は1人1人生きた人間の証拠であり、尊厳です。私は思いを深くし、しみじみとある頭蓋骨に触れ、目のくぼみに指を差し入れ、上顎にも手を入れて優しく触れながら、その方の存在、その方に起こったであろう様々な人生の悲喜劇、喜びや悲しみを頭蓋骨が物語っていることを思いつつ、一人の人間の尊厳に襟を正し、しばらくその場所から離れられませんでした。祈りなしには一瞬もおれない厳粛な場所でした。そんな私を見てカメラを向ける人もありました。

  別の場所で頭蓋骨を持ち上げましたら、骨はすっかり枯れて400gほどの軽さ、大腿骨は200gほどです。向こうではそんなことも許されます。持って帰ろうとしたら、出口でカバンの中まで調べられて、チョット来いと…。私ではありませんよ。地下は迷路になっていて、もし迷い込めば出ることはできないでしょう。実際禁を破って奥に入り、死体になって出て来た人がいたそうです。

  そこで思ったのは、先ほど申しました、人間は本質的に1人1人だという事です。家族と言う共同体はあります。その価値は非常に重い。だが、永遠的な意味では幻想です。無論子どもが小さい時には養育責任が親にあります。安心して暮らせる家庭を作ってあげる責任がある。だが人の永遠的な本質は家族と切れています。それを6百万体の名も無き頭蓋骨、大腿骨を通して思いました。だが、200年経ち完全に無縁になっても、神は個々人の命の源であり、神との関係は超越的であって永遠に絶対に切れることはないということを確信したのです。

  家族は仮のものです。一代か、二代か、三代のもので、それ以上はどんな人かも知りません。永遠のものではない。だが、家族の外から、私たち1人1人に目を注いでおられる方があります。真にあなたのことを心にかけ、目を注いでおられるのは私たちを地上に送られた、キリストの父なる神のみです。

  このお方のご支配のあることが私たちの希望のしるしであり、このお方のご支配が私たちの間にあるということが、私たちの喜びなのです。これが、先に申しました、「私たちの唯一の慰めは、私が、身も魂も、生きている時も死ぬ時も、私のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです」とハイデルベルク信仰問答で言われていることです。


           (つづく)

                                              2014年10月5日





                                              板橋大山教会 上垣 勝



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