国や人種の優劣でなく


                             テゼの友人たち
―今回はドイツ、イギリス、ギリシャアメリカ、南アフリカ、オランダ、フランス、ロシアの人達とグループになりました―
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                                                    神の国は今ここに (上)
                                                    ルカ17章20-21節


                               (序)
  日曜日を2回空けましたが、先週は私がいる時より出席者が多かったということで、来年はぜひもっと長くお休みを取らせて頂くことができると楽しみにしています。いつも同じ色彩でなく、時々講壇に違った風が吹くというのはいいことだと思います。

  私の方も、休暇を与えられて色々な人と交わり、新しい出会いがあり、またテゼで皆さん1人1人を覚えてお祈りさせて頂いて思いを新たにし、刺激を与えられて帰ってまいりました。心から感謝をしています。

                               (1)
  今日の聖書に、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」 とありました。イエスの言葉です。

  これはファリサイ人たちが、「神の国はいつ来るのかと尋ねた」ことから始まった話です。ファリサイとは、「分離する」という意味ですが、彼らは選民意識が強く、律法を厳格に守るユダヤ教の一派で、旧約聖書レビ記的な清めを徹底することで、自分たちは敬虔な清い者として他の者から自分らを特別な者として分離する集団であったようです。

  また、「神の国」が来るとは、ユダヤ人の切に待望していたもので、彼らも例外でなく、むしろ彼らは敬虔な選民と自覚していましたから、神の国が来れば真っ先に自分たちはそこに入れられるだろうと期待していた訳です。

  ところがイエスは、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」と言われたのです。

  「見える形」とは、目に見える形のことですが、原語では観察できるような形のことを指します。ファリサイ人たちがあれこれと調べ、現代的に言えば人間が科学的に批判的に観察するような形も含んで、そのような形では来ないと言われたのです。―御嶽山でも直前まで観察上少しも変化なかったのです。それで戦後史上、最大の犠牲者が出ました。まことにお気の毒です。―ですから、あなた方は見える形で、一般人と自分たちを区別し、厚い壁を作っているが、神の国はそういう見える壁を作るものではない。また、「ここにある」、「あそこにある」と言えるものでもないという意味です。

  人間はどうしても自分を清く思いがちです。自分は正しいとも思います。日本人と中国人、朝鮮人の差別は一向になくなりません。むろん区別はありますが、蔑視を伴う区別をしてはなりません。蔑視すべき差などありません。あるのは互が辿って来た歴史の差と文化の違いがあるだけで、いずれも素晴らしいものを持っていますし、残念な個性も持っています。

  今回も海外で、そういう経験を多く積みました。韓国人についての思い込みが打ち砕かれることもありました。実に行動的な若い韓国人女性にテゼでお会いしましたし、フランス人が英語をしゃべれないことをテゼにおいてさえ何度も経験して、なるほどと思いました。

  英語がしゃべれないのを恥ずかしいと思う方があるかも知れません。私などその典型でした。だが、それは恥ではありません。それはそういう環境に置かれたからで、日常使う環境にあれば必ず喋れます。以前に触れましたが、ケンブリッジでいた頃、イタリア人の大学教授が夏に私たちの宿舎に来ました。確か古典の先生の偉い方です。同じヨーロッパの語学の先生でしょ。でも英語がまるっきり出来ない。驚きました。そういう環境に置かれなかったからです。国や人種の優劣ではないのです。

  でも、ファリサイ人は優劣で見るのです。

                              (2)
  さて、イエスは、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」と言われた後、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と語られたのです。

  これには色々な解釈があります。1)神の国はあなた方の外ではなく、あなた方の内に、内面に存在しているというふうに取る人もあります。心の中に神の国が来たということです。 2)それから、神の国はあなた方の互いの関係の中に存在しているという解釈です。人々の関係の中に神の国が存在するというのです。 3)それから、あなた方の互の間に隠れて存在するという理解もあります。すなわち、世俗の只中に来ているが、信仰の目を持ってしか神の国が来ていることを見分けることはできないという理解です。 4)また、ファリサイ人に引っ掛けて考えるなら、あなた方は自分を一般の世俗の人から分離し、選民であると敬虔さを誇っているが、神の国が実に只中に来ているのに、あなた方はその目で見ることはできないという意味にもなります。

  色々ご紹介しましたが、私は、ここを神の国の喜びの到来として聞くべきだと思います。神の国とは、国と言いますが領域でなく、神のご支配のことです。神のご支配はイエスと共に、既にあなた方のところに届いている。神のみ手はあなた方の所まで伸びている。見えないが既に来ている。単に心の中に来ているだけではありません。人生と生活の中に来ていると言うことです。

  プロテスタント教会で4百年に亘って広く用いられて来たハイデルベルグ信仰問答という本があります。信仰の中心となる骨格を問答形式で書いたもので、第1問の、「生きている時も、死ぬ時も、あなたの唯一の慰めは何ですか」という問に、「私たちの唯一の慰めは、私が、身も魂も、生きている時も死ぬ時も、私のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と告白しています。

  神の国はこのように、私たちの只中に来て、支配しているのです。しかも生きている時も、死ぬ時もという形で、そして「身も魂も、私のものでなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものである」という実に喜ばしい形で徹底してご支配してくださっている。自分なんてちっちゃいものだし、頼りになりません。本当に自分の弱さや醜さがあります。こんな者を自分のものだなんて思いたくありませんよ。この自分が「自分のものでなく、真実な救い主イエス・キリストのものである」と言ってくださるのはなんて有難いことでしょう。自分を愛せるのは、キリストがこのような者を避けず、愛してくださるからです。このご支配こそ私たちの喜びの源であり、神の国の到来こそ私たちの唯一の慰めなのです。

  今もエホバの証人とか、ものみの塔という人たちが2人連れで戸別訪問して来ます。今回九州からの帰りに大阪の兄の家に立ち寄って帰りましたが、50年ぶりに高校の同級生に会いましたら、「君は、キリスト教で働いているそうだが、二人連れでよく来る人たちと同じか」と聞かれました。滅相もない。あれはキリスト教じゃあないよと言って話しました。あの方々の説いているのはこの世の終末の裁きです。喜びの訪れより、裁きの行き過ぎた強調です。地震や戦争や天災があると、これみよがしに世の終末の審判を語って、入信しなければ地獄に落とされると脅して勧誘しますし、一旦入ったら最後、出れば地獄行きだとマインド・コントロールされていますから、ほぼ出れません。

  だが、聖書が語る人の子の到来は、裁き以上に希望の日の到来であり、神の国の喜びの日の到来です。キリスト教プロテスタントでもカトリックでも、あの方々とは根本的に違います。


           (つづく)

                                              2014年10月5日





                                              板橋大山教会 上垣 勝



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