隠れている神と向き合う


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                                                    わが望み (下)
                                                    マタイ6章16-18節



                              (2)
  「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

  人間を超え、超越するお方、神と1対1で向き合い、父なる神を相手にして生きる。そこにあなたの命の泉が湧いているのです。神は密かに行われる断食をご覧になり、人に知られない密かに行われる善行、施し、祈りをお聞き下さるのです。

  繰り返しますが、人生の深みも、魂の深みもそこから出てくるのです。「隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくため。」教会の深みもそこに根ざす時に大きく育つし、倒れないのです。根を張って伸びて行くのです。試練や迫害の時にも伸びて行くのです。

  別の面から申しますと、父なる神を見上げず人間だけを見つめていると疲れます。特に、人の色々な思わくに巻き込まれると、煩わしくなるだけでなく傷つきます。だが神にある時、魂が癒され、休みを与えられ、励ましを与えられるのです。心労がとれるのです。

  「隠れたところにおられるあなたの父」。人間からこのお方に目を移し、この方を相手にしなければならないのです。人から目を離せというのでなくこのお方を中心にして人に関わるのです。

  数週前にテゼで、ロシアの婦人が話をされたのをインターネットで読みました。オルガと夫のミ-チャさんは、旧ソ連の時代に数々の苦難を経験なさったそうです。彼女が洗礼を受けた時、心から愛し信頼していた家族からも、「お前は私たちに恥をかかせた」と叱られたのです。思いがけない試練にあいました。ですから、私たちは今も信仰ゆえの不利益や偏見や屈辱を受けている信仰者が世界のあちこちに存在することを忘れてはならないのです。アラブ諸国やアフリカの幾つかの地域、アジアのあちこちでも信仰を持つのは今も大変です。

  オルガさんが、世界からテゼに来た数千人の青年に話したのは、ババ・ベラさんという年取った女性のことでした。これはニックネームでしょうね。「ババ」は「おばあさん」の意味で、「ベラ」は信仰ということだそうです。ババというのはロシアから来た言葉ですかね。

  ババ・ベラさんは独身でずっと来た人で、結婚したことがありません。なぜか。若い時、婚約者は収容所で殺されたのです。彼女自身も8年間、監獄と収容所と強制収容所に入れられました。長い時間よく耐えられたと思います。ところが、オルガさんの言うことには、ババ・ベラさんは、オルガさんがこれまで会った中で一番幸福な人の一人だったというのです。

  ババ・ベラさんもフィアンセと同じように信仰のゆえに投獄されたのです。彼女の兄弟もその地域の教会の他のメンバーも投獄されました。彼女が投獄される以前、一人の司祭が彼女の家の屋根裏に密かに隠れ住んでいました。この方が礼拝をしてくれました。すなわち地下教会、地下に潜伏した教会をこの家族は作っていたのです。既に兄さんは逮捕され、ババ・ベラさんが逮捕されるまでは、極貧の老いた母と体が麻痺し不自由なお手伝いさんと3人で暮らしていました。

  やがて遂にババ・ベラさんも逮捕されました。最初に思ったのは、「もうこれでダメだということ、神はこんなことを決してお許しにならない」ということだったそうです。それと共にその時、屋根裏の司祭が最後に語った言葉が明るい光となって胸を照らしたのです。それは、「何が起ころうと、決して諦めてはなりませんぞ。神に不平を言ってはいけません」という言葉でした。

  「バラ・ベラさん」は、このようにオルガさんに話して、その時こう言ったそうです。「私の心は石のようになって、その時祈れませんでした。私はただ口で、“Slava Tebe Boze!  聖(きよ)き神、力強き神よ”と繰り返しました。心を落ち着かせるために、ただそう口ずさんでいたのです。」正直ですね。自分の弱さを隠しておられません。イエス様はそのことを知っていて下さるからでしょうね。

  “Slava Tebe Boze”これは、テゼで今歌われている歌の1つです。抵抗の歌であり、心を静める歌であり、父なる神を仰ぐ歌です。

  オルガさんは、ババ・ベラさん、信仰のお婆ちゃんの若かりし日をこのように証したのです。

  私は思います。ババ・ベラさんは、長い長い、断食より遥かに長い厳しい苦難の中で、魂の深いところでキリストを仰ぎ、試練や迫害の中でも決して諦めず、神に不平を言わず、信仰の根をキリストの真理に深く伸ばして行かれたのです。そして、若いオルガさんが、これまで出会った最も幸福な人の一人でしたと証される人に知らぬうちになっておられたのでしょう。

                              (3)
  人に見てもらおうとするのでなく、「隠れたところにおられるあなたの父に見ていただく」。この根本の所が大事です。

  父なる神に見ていただく。この姿勢がある時に、人は真摯にさせられ、自分を見つめ直し、心を閉ざしている殻が打ち砕かれます。殻を打ち砕いていただいて爽やかな空気が、神の霊が入って来るのです。

  人の前で振舞う方(ほう)が、神の前で振舞うよりも易しいでしょう。ちょっぴり誤魔化し、人は騙せます。仮面をかぶれます。自分を見つめ直すのは不安があります。もしかすると自分を裁かなければならないかも知れず、許せないかも知れないからです。自分自身と和解ができていないからです。

  真実な神のみ前で、真実な神の赦しをまだ聞いていないからです。神の赦しでなく、自分で自分を安易に許しているだけだからです。

  しかし、自分の部屋に入り、戸を閉じ、隠れたところで、隠れたことをご覧になる方の前に出て祈る時、私たちの根本問題が解決されるのです。

  流れの早い川に、一枚の板が渡してあります。細い板です。臆病な人は渡るのが怖い橋です。家内などはそんな橋を決して渡れないでしょう。しかしそこを渡ってしまえば、古い自分から新しい自分への国境線を越えることができるのです。向こう側は、神の恵みが満ち溢れる喜びの国であり、自由の国です。赦しがあるからです。だが、こちら側は身構え、鎧(よろい)をかぶり、真の自分を避け、他人の責任にし、他罰的になる赦しのない古い世界です。

  小さな橋を渡った向こうは広々として、赦しの世界が広がっています。そこは、防御の世界でなく和解の世界。平和を作り出す、作り出したくなる、肩を組みたくなる世界です。イエスこそ平和の主であられるからです。敵をも赦されたからです。そこは多様な者が赦されて生きる世界があり、神の国の前触れがあります。そこには、喜びと信頼、感謝と和解、キリストの平和の世界が続いているのです。

  日本は今、行き詰っています。21世紀のベートーベンと騒がれた全聾の作曲家。日本の得意分野の科学の世界で大発見したと言ったスタップ細胞の女性。先週の朝日新聞の吉田調書の訂正記事。そして、その記事の訂正以上に問題なのは、世界の舞台で語られた「原発は完全にコントロールできている」という発言。最大の困難は経済問題でなく、嘘や偽りがまかり通っているところにあります。これでは国の屋台骨が腐ります。

  名誉回復のためには、この国に、「隠れた所におられる父に見て頂く」という信仰が必要です。朝ドラの「花子とアン」でも、なぜキリスト教がそのままの姿でしっかり出ないのかと思います。花子も夫も出版社も、両親もそれ以外の人たちも、あれはキリスト教世界の中で起こったのです。どうしてキリスト教の一番いいところを省くのかと思います。「隠れた所におられる父」。その前に生きる信仰と思想。真理の前に謙虚に立つ生き方が社会に根づくことがぜひ必要なのにです。

  ただそれは誰かに要求するより、私たちが日常そう生きることから始まります。今週、その一歩を始めたいと思います。

         (完)

                                              2014年9月14日




                                              板橋大山教会 上垣 勝



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