それでは生き方が浅くなります


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                                                    わが望み (上)
                                                    マタイ6章16-18節


                              (1)
  断食をしたことはおありでしょうか。バリュームを飲む時、断食しましたって。1食とか、まあ1日位ならいいですが、2日間断食するときついですよ。昔のユダヤ人は、普通、年に5、6回。ほぼ2ヶ月に一度断食したようです。しかし熱心なユダヤ教徒は週2回も断食しました。

  イエスは逆に、自分がいる間は喜びの日として、断食は不要とされました。しかし、もし断食をするなら、ここにありますように、「あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。…断食するときは、頭に油をつけ、顔を洗いなさい…」とおっしゃったのです。

  油とはオリーブ油です。私たちは、エキストラ・ヴァージン・オイルは香りが高いとか、ゴマ油の方が良いとか、健康や食生活のことを考えますが、オリーブ油は喜びの象徴なのです。喜びの象徴として彼らは使ったのです。今日はオリーブ・オイルを使って、喜びの気を入れて見てください。美味しさが違うかも知れません。先ほど、祝福式でオリーブ油を使いましたが、キリストにある喜びが皆さんにあるようにと思いつつ油を付けさせて頂きました。

  断食をすれば顔は曇り勝ちです。気力は冴えません。だが、頭に油をつけ、さっぱり顔を洗い、喜びを失わず神の対してなせ。人に気づかれるなとおっしゃるのです。律法学者やファリサイ人たちは、「人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」ことがあったからで、そういう時こそ胸を張って、痩せ我慢でなく、顔を輝かせて生きよと言われたのです。

  ある英訳聖書には、「密かに」という単語が挿入されています。「見てもらおうと顔を見苦しくする」のは無論のこと、見られたいと「密かに」望む。これも問題だと言うのでしょうか。

  6章3節をご覧ください。そこに、「施しをする時は、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と言われています。中には、右手がした以上のことを、左手で宣伝する人だっています。だが、善行を自慢しないだけでなく、心の中ででも反芻するなと語るのです。これは厳しいです。

  6節では、「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われています。断食も施しも祈りも、行為は違っても、人に見せるのでなく、隠れたところで見ておられるお方に対してなせということで共通しています。

  イエスはこの6章前半で、断食や祈りや施しや善行、これらは皆宗教的行為ですが、その純粋化を求められたのです。濁っていないこと、ピュアなことです。ピュアといっても、神に向かうピュアさです。

  本来、ユダヤ人の断食は、神に対する悔い改めのためです。それは自分で選んだ苦しみの時であり、自分との戦いです。別の角度からすれば、神との交わりに集中する時です。日常生活の暮らしの中で心を神に向け、超越する神と単独者として出会う時です。神と1対1の関係に入る時です。それが断食の一番良質な部分です。

  ところが外側はそうだが、断食しながら「人に見てもらおうと」する。神を相手にする格好をしながら、実際は人間を相手に、見てもらい、褒めてもらい、気に入られようとしている。そこに偽りがあります。欺きです。祈りはまさに神になされますが、祈りも言葉は神に向かいながら、実は人を気にし、人の心に訴えている。それは偽善だと言われるのです。

  断食でも、祈りでも、施しでも、善行でも、褒められたい、見てもらいたいという思いでやっている。それでは、「既に報いを受けている」。それでは折角、神との間でしようとしていた高価な良質のものが、人間の賞賛という安価な低いレベルに留まり、父なる神との関係が途絶えると言うのです。

  2千年前のイエス様の言葉ですが、これは現代人の問題性にも光を当てているかも知れません。現代人はこの世の報いを期待しています。神からの報いなどどうでもよくなっている。だがそうなると、生き方の深さがなくなるのです。褒美や報奨、人からの報いというレベルの低いところで生きてしまい、生き方が浅くなるのです。

  苦しいことを人に聞いてもらうのは、時に必要です。すべてを吐き出すことで随分楽になります。すっかり吐き出せる人をぜひ持っていただきたいと思います。しかし本当のところは、自分が一人、神に向かわなければ、本当の深い問題は解決しません。魂の一番深いところにある、誰でもには安々とは言えない解決されない問題を神の前に持ち出していく時に、以前より深められた次元から解決されていきます。そしてその時、その人の人格も深さを増し、人格の味わいが形成されることが多いのです。病気でなければ、孤独こそクリエイティブな力が湧いてくる時であり、場だと言えます。単なる孤独ではありませんよ。孤独の中で神に向かう時にです。

         (つづく)

                                              2014年9月14日




                                              板橋大山教会 上垣 勝



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