勝利を収める者


                ハンス・ホルバインはイメージしていたより親しみやすい顔でした
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                                                    勝利を収める者 (下)
                                                    黙示録17章14節
                                                    詩編72篇1-20節



                               (2)
  次に黙示録ですが、14節は17章1節から続くものです。それで長くなりますが、1節以下の概略を申し上げる方が分かりやすいと思います。

  1節に、「さて、7つの鉢を持つ7人の天使の一人が来て、わたしに語りかけた。『ここへ来なさい。多くの水の上に座っている大淫婦(だいいんぷ)に対する裁きを見せよう。地上の王たちは、この女とみだらなことをし、地上に住む人々は、この女のみだらな行いのぶどう酒に酔ってしまった』」とあります。

  黙示録はローマ帝国キリスト教迫害時代に書かれました。この「地上の王たち」は自らの権力を欲しきままにせんと、「大淫婦」、即ちサタンとも言うべき存在と「淫らな」取引をし、権力を手に入れて喜び、酒に酔っぱらってしまったというのです。人間としての一線を外すまでになったということでしょう。だが、最後的には、主なる神はこの大淫婦に決定的な審判を下されるというのです。

  次の3節に、「わたしは、赤い獣にまたがっている一人の女を見た。この獣は、全身至るところ神を冒涜する数々の名で覆われており、七つの頭と十本の角があった」とあります。

  大淫婦は、「神を冒涜する」獰猛な「獣」にまたがり、縦横無尽に世界を駆け巡っているのです。

  6節は、「わたしは、この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た」です。

  「聖なる者」とはキリスト教徒です。大淫婦は、自分の手下にした王たちによって多くの信仰者を殺戮させ、血を流すことによって酔っ払いのように喜びの声を上げているのです。恐ろしい光景です。

  そして7節で、「わたしは、この女の秘められた意味と、女を乗せた獣、7つの頭と10本の角がある獣の秘められた意味とを知らせよう」と語り、9節で、「 7つの頭とは、この女が座っている7つの丘のことである。そして、ここに7人の王がいる。5人は既に倒れたが、一人は今王の位についている。他の一人は……。以前いて、今はいない獣は、第8の者で、またそれは先の7人の中の一人なのだが……。 また、あなたが見た10本の角は、10人の王である。…この者どもは、心を一つにしており、自分たちの力と権威を獣にゆだねる」と語り、今日の、「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める」と続くのです。

  要するに、「この者どもは」とは、1節以下に出てくる、神を自称し、大権力をもって世を支配しようとする悪魔的な10人の王です。また7つの頭と称する傲慢な支配者たちです。彼らの背後には、彼らを操る荒々しい獣的な存在、神を冒涜する大淫婦とか呼ばれる悪魔的存在、サタンがいます。王たちは悪魔的な考えに没頭して自分への礼拝を強要するのです。

  すなわち黙示録は、ローマ帝国のネロ帝やヴェスヴァシアヌス帝、ドミティアヌス帝などと言った、キリスト教徒を大迫害した王たちを暗示し、現実に目の前に見ているのです。だが、そんなことを直接的に表現すれば大迫害が始まります。そうした支障があるため、黙示的な秘められた言葉で、「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める」と、キリストのご支配を確信して書いたのです。

  「この者どもは」支配権を主張し、その支配を人の心の中まで、魂までこじ開けて支配しようとします。戦時中、軍隊には精神注入棒というのがありました。従わない人間を叩きのめし、彼らの骨の髄まで「皇国の魂」を注入しました。人の魂までも支配しようとしたのです。

  彼らは一方では魂を従わそうとし、他方では真理と、まことの神と戦います。真理を倒して、代わりに自分が真理となって支配しよう企らむのです。聞く耳など持ちません。真面目に対応しません。はぐらかすだけで、自分の主張を強引に貫徹していくのです。

  そうした時代には、信仰者たちは苦難を舐(な)めます。ソロモンのような名君、虐げられた者たちへの思い遣りのある王でなく、国土を平和にする支配者でなく、彼らは独裁的ですから、信仰者は大いに苦労し、悩み、迫害の元に置かれます。

  そうした中で、「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ」と語るのです。

  狼の前に小羊などひとたまりもありません。赤子の首を絞めるようなものです。キリストは処刑され、滅ぼされます。だが、小羊は滅ぼされたのでなく、神に献げられたのです。人の罪を贖うために、代わってご自身を捧げられた。この小羊こそ、主の主、王の王です。

  ソロモン王は、「この者ども」と言われるような、現人神を自称する王でなく賢王でした。彼は王家の確立と永続を願いました。72篇は素晴らしい詩編です。だがその王朝にして僅か4百年程で潰(つい)えました。いかに賢王でも限界があります。だが神の小羊、キリストこそ、主の主、王の王として勝利します。

  小羊こそ最後究極的に勝利します。それでよいのです。小羊と共にいる者は、恐れる必要はないのです。小羊さえ最後究極的に勝利して下さるなら、それでいいのです。

  私の幸福。私の満足。むろん私は大事ですが、私を超えて小羊の勝利が大事です。それがなければ、私の幸福も虚しいでしょう。

  私たち人間は私の満足や気持ちの充足を求めてやり返すのです。恨みを晴らそうとするのです。しかもその仕返しは何倍にもなります。我を子を殺されれば相手を街じゅう引きずり回し、血祭りにあげ、滅多打ちにして、それでも気がすまないのです。だが、そういう古い世界を再び来らせてはなりません。小羊キリストが勝利して下されば十分です。

  小羊の勝利だけで十分なのです。だが「小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める」と語っています。

  私たちは取るに足りない小さな信仰者です。既に天に召された者、今も小羊に対して忠実に歩む者、キリストに結ばれ、キリストに繋がって生きる弱い者ですが、小羊の勝利と共に全キリスト者は勝利するのです。

                              (3)
  繰り返しますが、「この者ども」は地上の王たちであり、神の座を狙う悪魔的存在として小羊キリストと戦うが、小羊は主の主、王の王であって最後的に勝利する。

  彼らがどんなに世に跋扈(ばっこ)し、この世の権力に酔いしれ、王権を振り回し、民を苦しめても、小羊には勝つことはできません。最後に小羊キリストが勝利します。

  人間は悪の力に唆(そそのか)されるでしょう。今後も、高慢と狂気に酔いしれる人物が出てくるかも知れません。人々は強者になびくでしょう。人間を神に祭り上げ、礼拝させることも起こるでしょう。神の子たちが窮地に立たされるかも知れません。

  だが滔々(とうとう)と流れる川のまえに佇んで、流れを見つめましょう。川の流れの所々で何かが原因で渦巻きが起こり、そこに逆流が生まれていることがあります。だが川はそんな逆流は気にせず、海に向かってひたすら流れていきます。人間の中には、神の大河に逆らう逆流になったり、渦巻きになる人間があるかも知れません。だが、神の大河は力強く彼らをも海に連れて行きます。いかに逆らっても、神の審判は免れません。どんな強者も小賢(こざか)しい知恵者も、神の審判のもとにあり、唯ひとりの神が審判されます。人が審判するのではありません。

  だからパウロは、私は人間に裁かれても、少しも問題ではない。「私を裁くのは主なのです」と語ります。主なる神のみが正しい裁きを最後的にして下さるのです。

  私たちが地上で敗北しても、このお方の審判は正しく行われるでしょう。心乱す必要はありません。このお方に信頼し、このお方に委ね、私たちは為すべき日毎の業に、思い煩わず励めばいいのです。気を落とさず、最後はこの方が勝利を収めて下さることを信じて。

          (完)

                                              2014年9月7日



                                              板橋大山教会 上垣 勝



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