3千年前の王の詩です


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                                                    勝利を収める者 (上)
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                                                    詩編72篇1-20節



                               (1)
  今日は先ずは、詩編72編からお話いたします。ここでイスラエルの3代目の王ソロモンは、「神よ、あなたによる裁きを、王に、あなたによる恵みの御業を、王の子に、お授けください」と語っています。彼は、神によって、正しい裁きをする力をお与え下さいと。また、王の子に、あなたによる恵みの業を行う力をお与え下さいと、祈っています。「授けてください」とは、「寄付して下さい。寄贈して下さい」というような意味です。私には何もないのです。だから与えられなければないのです。ソロモンは大王ですが、そういう低い思いから祈っているのです。

  自分には少しその力があります。それを補って下さいというのではない。私も、私の子どもも、乞食のように手に何もない。だからあなたから授けられとうございます。これがソロモンの心です。

  列王記上を見ますと、彼は神に、長寿や富でなく、訴えを正しく聞き分ける力をお授け下さいと祈ったと書かれています。人の話をよく聞き、何がその人の訴えかをよく聞き分ける力と言ってもいいでしょう。今の日本では、健康と長寿が求められていますが、そうじゃあない、もっと大切なものがあると彼は気づいていた。まだ30代か40代の頃です。今からおよそ3千年前の異国の王ですが実に立派です。主はそれを喜ばれたと記されています。

  この詩編でも、民の訴えを正しく取り上げ、貧富を分け隔てせず、正しく裁くこと。偏り見ないこと。そして国土が平和と恵みをもたらすことを願っています。「国土に平和」でなく、「国土が平和を」もたらすのです。

  王が山や丘を正しく管理し、荒廃させなければ、荒れる訳がないわけで、国土が民に平和をもたらし、恵みをもたらします。だが戦乱に明け暮れたり、乱開発を行ない、現代的に言えば、商業ベースの儲け儲け主義で行くなら、山も丘も崩れ、民は苦しむでしょう。里山とか、トトロとか何とか言いますが、自然への真の畏敬がないなら虚(むな)しいことです。

  犬のローケン施設というのができています。ローケンとは老健ではなく、年取った老いた犬、老犬の施設。「老人」ホームでなく、老犬の老人ホームのようなものです。流行っているそうです。動物保護とはそういうことだろうかと考えさせられます。月10万とか20万円で入所するようで、貧しい人を置き去りにした、お犬様、お猫様の時代です。世が狂って来たのか、私の頭が狂って来たのか、分からなくなって来ました。

  旧約の人たちは、ですから神の御心に添う、正しい為政者を求めたのです。常識外れの乱開発をして、大自然との調和を乱すと、被害は民の上に降りかかります。しかし自然との調和がある時に、自然は素直に私たちに恵みをもたらすでしょう。

  ここに王たる者の思慮深さ、高貴さが現れるのです。大自然を正しく管理し、民に平和をもたらす。貧しい人たちを恵みでもって治め、乏しい子らを救済し、彼らを不当に虐げる者や暴虐をなす者を厳しく砕く。そういう神の御心に沿った賢明で、義しい裁きをする王にして下さいと祈るのです。

  現代に移せば、今は王でなく、そういう考え深さ、高貴さを持った政権であり、政府です。

  次の5節以下に、「王が太陽と共に永らえ、月のある限り代々に永らえますように。王が牧場に降る雨となり、地を潤す豊かな雨となりますように。 生涯、神に従う者として栄え、月の失われるときまでも、豊かな平和に恵まれますように」とあります。

  王の支配の永続性、更には永遠性です。ここは、イギリス国歌の歌詞に影響を与えたと言われる箇所です。太陽が続く限り、月のある限り永く、永く、永らえますように。刈り取られた牧場に恵みの雨が降り注いで、再び柔らかな新芽が萌え出すように、王の恵みの支配が、民の上に注ぎますように。地を潤す豊かな雨のように注ぎますように。――このような王は名君と歌われるでしょうね。

  7節は、「生涯、神に従う者として栄え…」とあります。ソロモンは健全です。王は神ではありません。王は神に従うものです。王の権威は相対的です。絶対ではない。この詩編の健全さはここにあります。

  古代の王はしばしば自分を神として拝ませました。貨幣を発行してそこに誰それは神であると刻ませました。現人神という訳です。70年前には日本でも天皇は神です。神の名で侵略しました。戦後、人間宣言はしたが、残念にも国民への謝罪も侵略した諸国への謝罪もなく彼は死にました。だがこの詩編は、自分を突き放し、「神に従う者として、月の失われるときまでも、豊かな平和に恵まれますように」と祈るのです。

  8節以下は、7節までに書かれた国土の安定と王の支配を更に発展させます。12節以下に、「王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を、助けるものもない貧しい人を救いますように。弱い人、乏しい人を憐れみ、乏しい人の命を救い 、不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように」とあるように、低い者や乏しい者への心遣いが随所に現れています。また16節は再び、「この地には、一面に麦が育ち、山々の頂にまで波打ち、その実りはレバノンのように豊かで、町には人が地の青草ほどにも茂りますように」と、国に命が充ち溢れ、国土の繁栄が歌われています。

  このように歌って、最後に、18、19節は、「主なる神をたたえよ、イスラエルの神、ただひとり驚くべき御業を行う方を。 栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ、栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン」と、神に頌栄が語られます。

  この頌栄は72篇の締め括りとして、ソロモンは何を目指して生きるのかを書くわけです。それは神の栄光のためです。そこに彼の人生と生活の目標があるということです。しかし、それと共に、実は42編から始まる詩編第2巻の締め括りを成しています。第2巻には31篇の詩編がありますが、それら全てが、「主なる神をたたえ」、神の栄光が「全地を満たす」ようにと生き生き祈って、「アーメン、アーメン。」まことに、まことに、このことは巌のように確かな真実ですと、信仰と真実を尽くして語ります。

  末尾の「エッサイの子ダビデの祈りの終り」という言葉は、第2巻全体を閉じる言葉です。72篇を閉じるのでなく第2巻を閉じる言葉です。後から挿入されたのでしょう。

  いずれにせよ、3千年前に書かれたものです。当然、幾つも限界がありますが、地球的規模で見れば、地域によってはまだ弥生時代であったり、縄文後期であったりします。手に棍棒を持ち、獣の腰巻を巻いて獣を追い掛け回し、裸で山や海で狩猟をしていた。そこから考えれば、何と進んだ文明人だろう、貧しい人をここまで大切にする人がいたのかと思います。これは、モーセ十戒から来た思想でしょう。その十戒は更に2百年程前に遡るのですから驚きます。

          (つづく)

                                              2014年9月7日



                                              板橋大山教会 上垣 勝



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