結婚の約束が持つ重さ


                     リンデンホフからの聖ペーター教会・チューリッヒ
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                                               神を賛美したサマリア人 (中ーB)
                                                 
                                               ルカ17章11-19節


                              (3)
  そうではありますが、それよりも先にイエスは、「清くされたのは10人ではなかったか。他の9人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」と、怪訝(けげん)な顔で尋ねられました。

  ユダヤ人は戻って来ないで、サマリア人、異邦人、この外国人だけが戻って来た。そのことにびっくりされたのです。詩編に、「主を賛美するために(ユダヤの)民は創造された」とあります。これがユダヤ人の存在意義です。だが、ユダヤ人は一人も神を賛美するために戻って来ない。呆れます。

  旧約時代には、神はユダヤ人と契約を結ばれました。この契約ということが聖書では非常に重要です。契約とはヘブライ語でベリースといいます。ベリースとは、「切る」という意味です。どういうことか。それは契約を結ぶ両者が、目の前で牛を切り裂き、この契約を破る者はこの牛のように、切り裂かれるということを目にしながら契約を結んだのです。今日、日本でも結婚は両性の合意に基づく契約です。だから一方が一方的に破棄するのは契約違反であり、本来ならその人は切り裂かれなければならない。これ程に結婚の契約は重大なのです。

  だが神はユダヤ人と契約を結ばれますが、実際には彼らが繰り返して契約を破って来ました。しかし神は決してその契約を破らないのです。それが旧約聖書の記すことです。人間の罪の姿です。それと共に神の永遠に変わらない真実な愛です。

  ところが、神は契約を真実に守って来られたのに、新約の時代になってもそれが続いているのです。イエスによって癒され、神の恵みが自分の身に届いたに拘らず、それに気づかない。気づこうとしない。必要なのは単なる感謝ではありません。神を賛美することです。

  無論9人は、肉体が癒されたことを喜んだでしょう。社会復帰できたことを喜んだでしょう。だが、彼らは肉体は救われたが、魂の救いに至らなかった。人間として救われなかった。イエスはそれを嘆かれたのです。

  だがサマリア人は、肉体と共に魂も心も、その存在全体が癒され、救われた。イエスは深い悲しみを味わわれると共に、ここに、1人の救われた外国人が与えられたことを神に感謝されたのです。そして彼に、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言って、送り出されたのです。

  「あなたの信仰があなたを救った。」今後は、信仰を抱いて、くよくよせず、自信を持って生きなさい。信仰を杖として生きなさい。あなたは今、主なる神との交わりを回復した。さあ、立ち上がって、神との交わりを根拠に希望を持って行きなさい。そこにあなたの歩む道が備えられる。生涯信仰を見失わず進みなさい。そういう積極的な意味を含んでいます。

  サマリア人は今、改めて主に認められ、喜びを得たでしょう。それはイエスの心を知った喜びです。それは心に本当の平和を得た喜びでもあったでしょう。そして平和が彼に勇気を授けたでしょう。生きる力を授けたでしょう。彼はイエスによって愛を知り、暗い過去を持ちながらも、今度は隣人を愛する力ともなっていったでしょう。

  むろん、もしあの9人が戻って来れば、イエスからしか与えられない決して奪われることのない喜びを得たでしょうが、戻らないことによって、残念ながらそれを得る機会を失ったのです。


          (つづく)

                                       2014年8月31日


                                       板橋大山教会 上垣 勝



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