取るに足らぬ僕です


                         ニイニイゼミの幼虫が家族です
                               ・



                                                  取るに足らぬ僕です (下)           
                                                  ルカ17章7-10節
         

                              (2)
  こう話された後、イエスは、「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と言われたのです。「取るに足りない僕」とはむろん、平凡な普通の僕(しもべ)、あるいは役に立たない、無用な僕という意味も含まれます。「しなければならないことをしただけ」とは、当然のことをしただけ、義務を果たしただけという意味です。そう言いなさいとイエスは言われたのです。

  これは一体何を言わんとしておられるのでしょう。

  もしこれが、この世の人間関係。社長や上司や夫に対して為すべき絶対服従だというのなら、それは封建的な人間関係です。だがこれは私たちの人間関係のことを指しているのではありません。主人と僕や、王と家来の関係に例を取っているが、それを社会で為せと言っているのではありません。ここを履き違えると間違います。

  イエス様は、当時の主人と僕の関係を例にとって、神と人間との関係を語られるのです。そのことは、「あなた方も同じだ」と言われたことから明らかです。これは12使徒に言われたことで、神との関係において同じだという意味です。

  繰り返しますが、これをこの世のことに適用するなら時代遅れも甚だしいでしょう。2千年前の封建社会に逆戻りです。イエスは封建的な主従関係を肯定しておられるのでも、主人の前では、何を言われても黙って隷従しなさいと言われた訳でもありません。また、神との関係においても、盲目的な絶対服従、義務の世界だと取ると間違いです。

  話は飛びますが、40年も昔、新米牧師の頃に九州の島原のある老婦人の証を聞いたことがありました。どこでお聞きしたか、何才の方だったか忘れましたが、90才近い敬虔な信仰を持った方でした。その方は、日曜日の礼拝のため、毎週金曜日には銭湯に行って、身を清めてみ前に出ますと言っておられました。田舎で、当時はしょっちゅうお風呂に入る習慣がなかったからですが、聖なる方のみ前に出るのだから、言わばお殿様の御前に身を清めてから出るように神様の御前に出るのですと証されました。

  駆け出しの私は、痛く感動しまして、聖なる主の前には聖なる思いになって謹んで出ることをしなければならないと反省させられました。信仰の基本姿勢です。

  また、全盲ではありませんが、ある目の悪い方が、自分はよく目が見えないので、聖日礼拝に予告されている聖書を数回繰り返して読んでから出席していますと言われたことがありました。これにも教えられました。

  駆け出し牧師で、説教の準備に聖書は一応読みますが、一回読んですぐにコメンタールという難しい注解書を読んで、それで考えて説教していました。何回も聖書を読み込んで、自分の頭で説教しているのではなかった。いわば注解書の受け売りとまでは行きませんが類似したものですよ。この方の話からも、キリスト者とは何かの基本姿勢を教わりました。

  お2人共学問のない方でしたが、その信仰に教えられました。もし教会につながっていなければ、こういう信仰生活の素朴な、奥深いところは分からなかったと思います。

  またある男性は、戦前も随分昔のことですが、日曜日には皆より一足先に教会に着いて下足番をされました。昔は草履や下駄の生活です。下駄など種類はそう多くなく間違いやすい。大きな教会だと下足番がいります。道も舗装していないのでぬかるみで下駄は汚れます。ぬかるんでいなくても足は汚れます。下足番というのは雑巾を貸したり汚れた低いものを扱う奉仕で、家では下男のする仕事です。

  その方は下男のようにして教会に仕えました。知らない人は帰りに、「おい君、そこの下駄を取ってくれ」などと言いつけたのです。

  しかし地元の知る人ぞ知るで、この男はその県から出ている国会議員でした。だが腰は低くキリストに仕えるように人々に仕えたのです。

  これらの方々の信仰は知らぬ人が見れば義務にさえ見えます。彼らはどんなことがあってもいつもそうしている訳ですから。しかし義務にさえ見える喜びの応答です。絶対服従とも見える感謝の服従なのです。自らそれを選び取られたのです。誰から言われたわけでもない。

  今日の箇所で、なぜイエス様は、「しなければならないことをしただけです」と言いなさいと言われたのでしょう。それは、弟子にとっては、主なる神に仕えることが最大の喜びであるからです。人が聞けば義務に聞こえます。苦痛に見えます。だがここに最大の喜びがあるのです。

  12使徒たちはキリストに選ばれたのです。夜を徹した真剣な祈りによって使徒とされた者です。しかもやがて来る神の国の住人となる喜びを与えられています。彼らは喜びへと招かれたのです。

  自分や他の人に基づく、人間に基づく愛は大変崩れやすく、痛みも伴います。私たちの愛は愛なのに、愛する人を傷つけることさえあります。そのことに気づくのが大人であることでしょう。私たちの愛には限界がありますし、歪みもあります。

  人間とはそんな程度の者なのに、弟子も私たちと同程度ですが、徹夜で祈って弟子とされたのです。彼らの背後にはいつもキリストの徹夜の祈りがあります。たとえキリストの存在を感じなくても、背後に夜を徹したこの祈りが、祈りを込めたイエスの愛があるのです。

  そのことが、彼らは喜びへと招かれたと申し上げたことです。私たちも同じです。私たちがキリスト者へ導かれたのは、背後にキリストの祈りがあったからです。夜を徹しての祈りでなくても、十字架による愛の祈りです。ですから、それを感じなくてもその愛に信頼すること。それがキリストへの従順です。

  「私共は取るに足りぬ僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです。」こう神に対して語り従うことは、私たちの大きな喜びであり、誇りではないでしょうか。これは社会でよくある謙遜とは異なります。心からの喜びとして神様にこう語るのです。そこに私たちの幸不幸をも越える自由があります。

  私たちは小さなからし種ほどの信仰しか持たない者ですが、キリストを通して偉大な神に仕えさせて頂いています。くれぐれもこの肝心なことを忘れてはなりません。ちっぽけな私たちと偉大な神の関係です。自分の良い行いで神から義を得られるようなものではありません。主に仕える僕とは、主に対して、感謝と喜びの信仰を持って生きる者です。たとえどんな功績を立てたからといっても、神から感謝を要求できるとか、神からの報酬を請求できるものではありません。私たちの側は神から与えられたことへの感謝であり、神に感謝の領収書を出す信仰であるのが相応しいことです。神に請求書を突きつけるのではありません。神様に感謝の領収書をお出しするのです。

  先ほどご紹介した3人のキリスト者の方々は、神様に請求書を突きつけるようなあり方でなく、先ず神の愛を知って、その愛に何とか応えようと、神に感謝の領収書を書くような生活を続けられた方々です。だから私は痛く教えられましたし、人々に深い感化を与えることになったのです。

          (完)

                                       2014年8月24日


                                       板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・