腹が空けば誰でも不機嫌です


                             リマト川に沿ったチューリッヒ旧市街
                                     ・



                                                  取るに足らぬ僕です (上)           
                                                  ルカ17章7-10節
         

                              (1)
  先週は「からし種一粒ほどの信仰」を学びました。今週は「取るに足らぬ僕」について学びます。いずれも小ささや低さと関係しています。また先々週は、「小さな者を躓かせる」ことの罪の重大さについてでした。それは同時にキリストにある者をいかに重く考えて下さっているかということでもありました。17章1節から10節までは互いに無関係に見える3つの譬えですが、深い所では密接に関係していると言っていいでしょう。

  さてイエス様は7節以下で先ず、「畑を耕すか羊を飼うかする僕」の譬えを話し始められました。畑仕事や羊飼いの仕事は当時、ほぼ誰もが知っているきつい労働でした。

  現代人は野菜作りとか羊飼いと聞くと、牧歌的風景を思い浮かべて、自然に囲まれ、伸び伸びして健康的でいいなあと思って、いつかそういう事をしてみたいと農村生活に憧れる人もあるかも知れません。

  しかし「畑を耕す」のを頭で考えるのと、実際に農作業をするのとでは天地の差があります。時々、芸能人か何かで田舎に家を持って農業をしていますと自慢げに語る人たちが、実際の日常の畑仕事の大半は使用人に任せている場合がありますが、芸能関係でバンバン仕事をしてその上農業もするのは無理でしょう。家庭菜園でも、少し規模が大きいと日々の世話で疲れます。

  今日の平和集会に、教会で採れた決して良いものでありませんが、無農薬の巨峰のぶどうを味わって頂こうと思いますが、7月上旬から思わぬ手間が要りました。コガネムシ発見の最初の日は20匹以上を殺しました。殺さないとぶどうの葉っぱが皆食われて丸坊主になったでしょう。その頃からその他の花の水やりも欠かせない日課になりました。翌日から毎日見つけて5、6匹殺したので、200匹近く殺した計算です。ぶどうの木が3本もあれば、ぶどうの世話でまいったかも知れません。素人は巨峰に手を出すなと言われるようです。農家の方々のご苦労を思い敬意が生まれました。

  羊を飼うのも全く同じで、100匹、200匹、時にはもっと多くを放牧するわけで、柵に囲まれた場所で飼育するのならまだしも、野原なら、羊は勝手な動物で勝手なところに行きますからそれを集めるのは大変です。シェパードなどの牧羊犬を使わないと決して身が持ちませんが、大昔はそんなものを使っていませんから、ここに言われる羊を飼う僕は実に疲れる仕事だったと思います。

  さて、「その僕(しもべ)が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う主人がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか」と言われたのです。

  きつい仕事をし、腹を空かせ、疲れて帰って来た。腹が空けば誰しも不機嫌になります。僕だからといって腹が空かない筈はないし不機嫌にならない筈はない。だが食事の席について食べなさいと言われない。人生はそんな甘いもんじゃあない。

  むしろ、「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい」と言うのではないかと、イエスは言われたのです。これは当時の主人と僕の典型的な主従関係だったのでしょう。

  今日では考えられません。こういう主従関係は今では特別ですが、夫婦の間で今も似たところがある場合がありますし、D.V.家庭内暴力が起こったりします。ただ、似ているだけという場合が大抵でないしょうか。

  この主人は、「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい」と丁寧な物言いをしていますからまだしも、「おい早くしろ」とか、「まだか、何をグズグズしているんだ。もっと早くしろ、馬鹿者!」などと怒鳴られれば、僕(しもべ)であっても人間です。奴隷だからグッと我慢しますが、度重なるとカッとならないとも限りません。

  しかも、「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか」とイエスは言われました。これが、奴隷でなく主婦なら頭に来るでしょう。「俺がお前を養ってやっているのだから、当然だ」と威圧的に言われれば嫌になるでしょうね。

  今日の譬えは主婦でなく僕です。主人は感謝どころでなく他にも何かを言いつけるかも知れません。それでも従わなければならないのが僕です。いずれにしろ、当時の僕にとって世間は決して甘いものではなかったのです。いや、非常に苦労の多い、酷い環境に置かれた人たちでした。

  イエスは先ずそういう譬えをされました。主従関係の有無を言わせぬ絶対服従の世界。容赦ない義務の世界です。これがあなた方が見ている世界でないかというわけです。

          (つづく)

                                       2014年8月24日


                                       板橋大山教会 上垣 勝



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