からし種一粒の信仰



  隣り駅ゲッシェネンまでは目もくらむ急勾配。ドイツ人おじさん、おばさんはフラッとアルプスに遊びに来たそうです。
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                                                   からし種一粒の信仰 (下)
                                                   ルカ17章5-6節


                              (2)
  ただ今日の箇所では、それをお聞きになったイエスが、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」とおっしゃったのです。イエスの言葉はしばしば難解で意味がよく取れません。深い意味を含んでいるからです。

  ここは端的に言うなら、あなた方の信仰はからし種より大きくある必要はないということです。ある英訳聖書は、「あなた方に、からし種よりも大きくない信仰があるなら」と訳しています。からし種一粒の信仰より大きくなくていい。からし種で十分だということでしょう。巨大な信仰はいらないということです。極端に言えば、ごく小さく、貧弱に見え、この世に対して何の影響力もないかのように見える信仰であっていいということです。

  繰り返しますが、誰もが驚く程の巨大な信仰があればどんなにいいことか、ではない。からし種一粒ほどの信仰でよい。からし種というのは当時世界で最小の種を指しました。世界で最小の信仰でよいのだとおっしゃったのです。

  だが、地に蒔けばどこに落ちたか分からず考えられないほど小さいが、蒔かれれば必ず芽を出し、大きく枝を張って成長します。あなた方の信仰もからし種のように小さくて結構。小さくていい。威張っちゃならない。だが、からし種のように内に命を宿し、実を結ぶ信仰であれ! からし種に見習いなさい。からし種は小さいが神に信頼している、神に信頼する命が詰まっているから芽を出し実を結ぶ。あなた方も、神への信頼がなければ何も実を結ばない。そんな意味が含まれています。

  それにしても、イエスは、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と言われたのです。

  桑の木にこう命じて言うことを聞いてくれると思う方はございますか。これが現実に起こると信じられる人がいるでしょうか。恥ずかしいですが、私は信じられない。皆目です。

  桑の木が現実にそんなことをする筈がない。無茶です。というのは、イエスが語っておられるのは比喩です。不可能を可能にしてくださる神への信仰を持ちなさいということです。


  少し脱線します。私事で申し訳ありませんが、孫のAは3才ころに知能検査を受けてIQが非常に低いと、まだ2才数ヶ月だと言われ、やはりそうかと非常にショックを受けました。悲しいですが心に痛みを覚えつつ障害児手帳をもらいました。去年の夏は、5才になろうとしているのにまだはっきりした言葉がありませんでした。

  今5才9ヶ月になり、来年の春は小学校に上がります。この6月に知能指数を測りましたら100に伸びていたのです。普通児とほぼ同じで、何かの原因で飛躍的な成長をしました。驚きでした。嬉しかったし、感謝でした。まだまだ言語の問題やその他の遅れがありますかが、この1年半で驚く程、本当に長足の進歩を遂げたのです。

  これには勿論、両親の色々な工夫や愛や努力があったからですし、姉のBちゃんが夢中でよく遊んでくれたからでもあります。それともう1つ、傍らにいて思うのはバッチャンの努力もあると思います。

  毎日保育園に通いながら、週に1、2回、途中から東京家政大学の障害児の幼児グループや小茂根の小児療育センターに連れ出しました。家政大まで孫を連れて歩くと去年は50分ほどかかりました。また、川越街道の向こうの辺鄙なところにある小児療育センターまで1時間数十分かかりますが、歩いて行くこともありました。往復で3時間です。ある時は、そこから帰って来て、急いで昼食を食べさせて、それから正反対の加賀の向こうの家政大まで連れて行って、保育園にまた戻す。2万数千歩、3万歩ほど歩く日もありました。人様の目には狂った老女に映ったのでないかと思います。

  しかし可笑しい人で、私なら言いますが、一度も辛いとか言いませんでした。むしろ歩きながら、バッチャンと孫が草花を楽しんだり、立ち止まって空の雲を眺めたり、自動車修理工場やマンションの建築現場で立ち止まって色々な機械や自動車や働く人を眺めたり、2人で楽しんで来る風でした。しかし脇目にはやっぱり狂った老女でしょう。

  キツかったのは、午後2時ころに家に帰る時などは孫の体はグニャッとなり、目はドロンとしてもう絶対目が開かない。それを70を越える老女がリュックを背負い、前に孫を抱っこして保育園に急ぐ。あるいは自分の靴の上に立たせてイチ、ニイ、イチ、ニイとやって帰ってくる。笑うやら、あきれるやらです。時にはアイスクリームで釣って歩かせる……。

  本筋に戻りますが、ある神学者は、100%人事を尽くす、その時に、神が働いて下さることがあると言っています。言い換えれば、100%人事を尽くす時、不可能が可能にされる時があるということでしょう。信仰とは、神への丸投げではない。棚からぼた餅ではない。少なくとも無責任になることではありません。

  無論人事を尽くしても聞かれないこともあります。いや、どんなことも聞かれちゃあ、神様は人間の奴隷です。そんな神は神ではありません。でも人事を尽くす時に不可能が可能にされることがしばしばあるのです。

  パウロは、「キリストの愛が、私を駆り立てている」と言っています。キリストの愛で駆り立てて頂くことは大事です。家内は孫を愛する故に、駆り立てられる思いだったと思います。パウロはこうも言います。「私が正気でないとすれば、それは神のためであった。」神のために、隣人への愛のために、常軌を逸することは時に大事です。自分の欲に駆られて常軌を逸するのではありません。

  「花子とアン」の村岡花子の父親・安中逸平さんは、常軌を逸する男であったと思います。花子さんの孫は、曽祖父の逸平さんをそんなに高く評価していませんが、私はこの父親の愛が偉大だったから、ああいう子どもが育ったと思います。貧しい平民の子を頼み込んで東洋英和に入れた。その意志であり、遥かなものを目指す理想であり、幻です。学校で10年間英語教育を受けただけではない。それだけじゃあない。まだ小説「アンのゆりかご」の作者は若いから、そのところがお分かりになっていらっしゃらないのだと思います。

  家内の傍にいてこの数年思うのは、Aのことにかけては彼女は尋常でなく、正気でなく、時に区役所の課長に直談判したり、保育園の人たちを困らせたようです。両親も困らせられた。長年園長として幼児教育に携わって得た、一人の魂を大事にする熱情、パッションがあったからです。

  しかし正気でない愛。尋常さを超えて人事を尽くす異常なまでの愛。駆り立てられるような愛の思いと行動。命を尽くすから、神は小さなからし種もお用いになるのでないでしょうか。小さなからし種は命を尽くすから実を結ぶのです。

  ガリラヤのカナで婚礼があった時、宴会に不可欠なぶどう酒がなくなったのです。所がイエス様は僕たちに、「水甕(みずがめ)に水を一杯入れなさい」と命じられました。僕たちは命じられるままに、4、5斗も入る大きな6つの甕の口の所まで一杯入れたのです。

  大変な作業です。彼らは離れた水場まで何度も往復して水を汲みに走って、狂ったようになって水を汲んだのです。そして首のところまで一杯満たした。そこに彼らの人事を尽くした姿が見られます。

  だがイエスに命じられた僕たちは、ぶどう酒が必要な時なのに水を汲んで、それが何の役に立つのかさっぱり分かりません。自分たちのしている意味が分かりません。ただ命じられたまま汲んだのです。命じられるままに人事を尽くした。すっかり水を満たした時、さすがにやり過ぎてさぞくたびれたでしょう。家内もやり過ぎて膝関節を痛めて、車椅子を使うようハメになっちまった。

  甕に水が満ちると、イエスは、「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われたのです。それで持って行った。世話役は味見をした。すると、いつの間にか、水が、初めて口にするような飛び切り上等のぶどう酒に変わっていたのです。

  イエスは言われたのです。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」

  そんなことが現実に起こるとは思いません。決して――。だがしかし主は憐れみ、不可能を可能にしてくださるのです。

      (完)

                                       2014年8月17日



                                       板橋大山教会 上垣 勝



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