神の力は強い所に現れるんじゃありません



             ライン川の源流の渓谷は鋭く切り立っています。その淀みで釣り糸を垂れました。
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                                                   からし種一粒の信仰 (上)
                                                   ルカ17章5-6節


                              (1)
  イエスは12弟子を選ばれた時、彼らを「使徒」と名付けられました。ヨハネ福音書を除き、3つの福音書は皆、「使徒」と名付けられたと書いています。しかし特別な時以外、普通は彼らを「弟子」と記して、マタイとマルコ福音書では使徒は1、2回だけで、殆ど弟子となっています。

  弟子というのは、ギリシャ語でマセーテースと言いますが、学ぶ者、学問する者という意味です。12弟子たちは、まさにイエスから信仰を学び、父なる神や祈り、神の国、キリストを教えられましたから、その意味では「弟子」でした。

  しかし彼らは、イエスの十字架と復活後、この世に福音を携えて遣わされました。全世界に派遣されたのです。「使徒」はアポストロスと言って、この世へと遣わされる者、使命を授けられて派遣される者、前方に向かって投げ出される者という意味です。

  17章1節は、「イエスは弟子たちに言われた…」となっています。所が今日の5節では、「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言った…」となっています。「弟子」と書き、すぐ後で「使徒」と書いている。これはどういうことかという疑問が起こるでしょう。

  なぜ弟子と使徒を使い分けたかです。考えられるのは、1節以下では、イエスが弟子たちに師弟関係で教えておられる訳ですから「弟子」です。しかし5節以下の方は、1節から4節までで教えられたことを元に、彼らがこの世に「使徒」として遣わされる前に、どうにかして「信仰を増して頂かなければならない」という、派遣後のことが頭にあったことが暗示されているということでしょう。

  具体的に言いますと、彼らがイエスに願ったのは、世に派遣された時、躓きをもたらす者にならないように、また1日に7回でも人を赦せる強い信仰を持てるように、「信仰を増してください」と願わずにおれなかったのです。

  別の言い方をすれば、色々な知識を与えられた人が、いざ実践に出て行く時、学んだものを使いこなせるように願うのに似ています。彼らは、この世で信仰を実際に生きるということを大事にしたからです。

  そこで彼らは、あなたの弟子として社会に派遣されようとしていますが、私たちの信仰を強い信仰に、偉大な信仰に増大してくだい。人々が驚く程の信仰とは書かれていませんが、人々が太刀打ちできないと感じるような強い信仰に、信仰を増してくださいと願ったのです。引用しませんが、このことはマタイ福音書をご覧下さるともっと事情がよく分かると思います。

  彼らの求めはある意味で当然です。当然ですが、ここで彼らはイエスに対し見栄を張っていません。自分たちの信仰の弱さを素直に覚えて、「信仰を増してください」と言ったのです。この点は私たちも心すべきことです。

  私たちもこういう素直な姿でイエス様に向かいたいし、向かえばいいと思います。「神の力は弱いところに完全に現れる」とパウロは申しましたが、強い所に神の力が現れるのじゃあありません。私たちも自分の弱さを率直にイエスの前に持って出て願い求めることが必要です。

  私たちはプロテスタントですし、プロテスタントカトリックも、欧米から伝わったキリスト教です。しかしキリスト教の全体像はそんなものではありません。もっと大きく、全体を知ろうと思えば、ギリシャやロシアや東欧諸国に伝わった東方教会の姿も知る必要があります。

  東方教会は黙想や瞑想を大事にします。禅の修行は厳しいと言いますが、それよりもっと厳しい修行もあります。インドのヒンズー教には神秘主義がありますが、東方教会にも古くから神秘主義的な要素があります。言葉より象徴行為を大事にします。例えば、床の上に腹ばいになって体を投げ出し、イエスの前に自分を預ける祈りもします。言葉や頭で祈るのではなく、体全体で祈るのです。弱い自分をすべてキリストの前に投げ出すのです。

  またテゼで行われていることですが、床に置かれた、イエスが磔にされた実物大ほどの十字架の前に進み出て、深々と十字架に頭をつけて長く祈り、自分のすべての重荷をそこに降ろします。キリストに重荷をすべて委ねる徴です。また隣人の持っている重荷や自分の国が抱えている重荷をキリストに委ねる徴として、額をつけて祈ります。これも東方教会の伝統から学んだようです。

  これらは象徴的な行為ですが、いずれにしろ、弟子たちは自分の弱さをイエスの前に素直に持ち出し、新しい歩みが始めようとしたのです。

      (つづく)

                                       2014年8月17日



                                       板橋大山教会 上垣 勝



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