凹んじゃあならない



            ヤギと悪魔が戦う絵が絶壁に描かれていました。今はそのそばを道路が通ります。
           下はナポレオンのフランス軍と戦うスイス軍。この場面です。ただし向こう側の橋です。
                                                  (右端クリックで拡大)
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                                                   赦してやりなさい (中)
                                                   ルカ17章1-4節



                              (2)
  しかしイエスは、人間と社会を洞察して、「つまずきは避けられない」と言われたのです。何と悲しく響く、鋭い洞察でしょう。「躓きは避けられない」、必ず起こる。しかしそれに続いて、「だが、それをもたらす者は不幸である」と言われたのです。

  躓きは避けられない。だがそれをいいことに、意図的に躓きをもたらす者は、「不幸だ」と断固語られたのです。必ず起こる。だが、それを起こす者になるかどうかは、別問題です。交通事故が起こる確率は必ずあります。決してゼロではない。だがそれを意図的に起こす者は不幸だ、禍(わざわ)いだと言うべきでしょう。

  イエスはこの言葉で、たとえ躓きは避けられないにしても、あなたはそれを乗り越えて行けと、弟子たちに求められたのです。罪を犯さないことへの意思、それを止める断固とした決意です。

  そしてこう言われます。「それをもたらす者は不幸である。 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」イエスはこれを全人類に語られたのだと思います。

  イエスは権威を持ってこの言葉を語られました。これを聞いた弟子たちは、自分はそのような者に決してならないと心に誓ったでしょう。もしかしたら、これを破ることが起こるかも知れません。だが、そのために心疼(うず)き、罪を嘆き、もう一度原点に戻ろうと必死に思うでしょう。それが弟子たちです。

  キリストへの誠意、誠実というタガが全く外れたら、もはや弟子というのは名ばかりです。それは塩味をなくした塩であり、世の光でなくなった空しい光です。「あなた方は地の塩である。世の光である」というお言葉に、喜びを感じ、痛さを感じ、有り難さを感じ、責任を感じ、励ましを感じることは、弟子であることの徴(しるし)です。イエスの言葉を十分できない自分を反省するのであっても、やはりそうありたいと思うのは弟子である徴です。

  以前に訳し、テゼの集まりで時々歌っている歌に、「闇路の中、闇の中にあなたの消えぬ火、輝き…」という歌があります。テゼの歌集の第1番で、テゼの一番大事な精神を歌っています。私はこの歌を歌いながら思い巡らします。闇路とは、罪や裏切り、躓きであったり、心萎えさせられたり、心が凹まされたり、決して明るくなれない、気持ちがいいものでない人の態度であったり、色々なもの、闇の力です。罪の力です。

  そういう闇路に、「キリストの消えぬ灯火(ともしび)が輝いている」と歌っているのです。それは決して消えない、永遠に消えない確かな光である。私たちは、この火を見つめて歩こう。よそ見せず、ひたすらこの火に向かって進もうという意味です。励まされます。

  人生は何に向かって、どのような方向性を持って進めばいいのか、しばしば悩みます。それは人間である証拠です。魂を何に向けて生きていくのか。そういう中で、心を一つの確かなものに向け、詰まらないものでなく、キリストに、命の宝庫であり源であるお方に向けて行けばいい。そうすると闇路の中、闇が深く人生には辛いことがあるが、裏切りさえ経験しますが、それでも闇に負けない心が生まれる。凹まない心が生まれる。凹んじゃあならない。腐っちゃあならない。闇の圧力に潰されてはならない。その力にねじ伏せられるな。闇路の中に、あなたの、キリストの消えぬ火が輝いているのだから。私はこういうことを思い巡らしているのです。

  「これらの小さな者の一人を躓かせる」と言われている「小さな者」とは、キリスト者を指していると見ていいでしょう。キリストを求めている人たちも含みます。そうなら、「これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」とは、キリストにある、キリストを求める小さい者をこれ程までに支え、ここまで真剣に守ろうとしておられるお方の思いが迫って来ます。

  ずいぶん前に、以前の教会である方が洗礼を受けられました。ある時、その方が祈祷会に初めて出席して祈られました。「自分は日本に帰らず、長く外国に住むこともできましたのに、何か日本に帰らねばならない思いが募って帰りました。それは、あなたに日本でお会いし、洗礼を受けるためだったと今、知りました…。」私はその祈りを聞きながら、この方を躓かせるよりも、首に重い石臼を括(くく)られて海底に沈められる方がましだ。躓かせてはならないと思いました。内容は知りませんでしたが、重い苦悩を負って、どこかたどたどしく歩いておられたからです。その背にはどこか孤独が漂っていました。

  その頃は、その方の孤独が何か、具体的には知りませんでした。それから20年近くたち、暫く前にその方から、最近、息子たちに再会しましたという喜びの手紙を頂きました。我が子たちが立派に成人して、お母さんに会いたいと言って来たのです。結婚歴があるのを知りませんでした。大変優秀な方ですが、どんなに大きな打撃を受けて夫と離婚し、試練を負って生きて来られたかを初めて知りました。それと共に、何十年もして、昔、耐えられない程であった試練が、いつの間にか、喜びに変えられていた様子を知りました。いつの間にかキリストが状況を変えて下さっていたのです。

  首に石臼を括りつけられ、海底に沈められる方がましである。キリスト者に手を付ければ酷い目に遭うぞという意味すら感じます。皆さん、あなたを愛するがゆえの真剣さです。神を仰ぎ、キリストを主と告白する神の子たちを罪に誘い、罪を犯させる者は、海底数mでなく1千mの海底に、首に石をつけて沈められた方がましである。そこまでキリストにある者は守られているということです。まるで瞳のごとく大事に守ってくださるのだということです。何と真実なキリストの熱い愛でしょう。

        (つづく)


                                       2014年8月10日


                                       板橋大山教会 上垣 勝



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