サッカーでないかと錯覚しました


          これには曰くがあります。ところで氷河急行の車掌さんは顎にピアスをしていました。
                                                  (右端クリックで拡大)
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                                                   赦してやりなさい (上)
                                                   ルカ17章1-4節



                              (序)
  今日は「赦し」の問題を考えましょう。当然ですが、赦しは罪と対になっています。今日の聖書の言葉で言えば、罪を犯す者や躓かせる者に対してどう接するのかという問題です。罪と赦しは、私たちの日常生活の問題ですし、国家間の紛争や戦争の問題でもあります。

  例えば、語るのも気が重いですが、私が青年時代、いや、それ以前から、これまで何十年も紛争を繰り返して来たイスラエルパレスチナは、今ではイスラエルが国境に延々と、高さ8mの高い壁を築いて、パレスチナ側から不法侵入できないように、また物資輸送も不正に出入りできないようにして来ました。いわば兵糧攻めです。

  しかしパレスチナを根拠地とするイスラム原理主義の過激派集団ハマスは、かなりの住民の支持を受けて、イスラエルとの間に秘密のトンネルを掘って物資の輸送とテロリストの輸送をして、テロを行って来ました。それだけでなく、ロケット弾をイスラエル側に打ち込み、無差別に住民に被害を与えて来ました。それに対しイスラエル側はしばしば爆撃を加えて来て、この間にも大小さまざまなどっちが先とは言えない衝突が起こりました。

  そのハマスをやっつける名目で、皆さんもご存知のように、先日来ガザに侵攻したイスラエル軍が、すべてのトンネルを破壊し、ハマスの色々な建物や武器類を破壊すると共に、国連が運営する学校を爆撃して、子どもや先生たち10人が亡くなり数十人が負傷することが起こりました。これには国連も非難し、多くの国で反イスラエルのデモが起こりました。ガザの死者は既に2千人近くに達しています。これは人道問題です。ところがイスラエル側は、学校内か、その付近からミサイルが発射されたからやむなく空爆したと語っています。イスラム過激派集団ハマスの方も、国連学校付近からロケット弾を発射すればイスラエル軍も攻撃しにくいだろうという読みがあったかも知れません。こうして何十年も、第3国が調停しても抜け出せない泥沼状態が続いているわけです。

  これはシリアでも基本的に同じですし、ウクライナも同様です。日本と中国、日本と韓国は戦争状態ではありませんが、色んな応酬や既成事実化や刺激的な行動が行われて、同レベルではありませんが泥仕合がなされています。「自分は絶対正しい。相手が悪い。」そういう言い分で押し合っています。最近の週刊誌を見れば、どれほどの悪口を相手国に叩きつけているか、聞くに絶えない言葉で満ちてまるで戦争前夜ですし、新宿や池袋、秋葉原などでなされる韓国人、中国人へのヘイト・スピーチは到底聞くに耐えないものです。そんな言葉を吐くべきでないと大抵の方は思います。でも、警察は取り締まらない。非常に醜い日本の姿が露呈されて来ています。

  これは個人的レベルでも本質は変らず、紛争が一旦起これば、個人間のもつれも、国家間のものも、中々解決の糸口が見出せなくなります。

                              (1)
  さて、イエス様は弟子たちに、「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」と言われました。

  「躓き」とは、仕掛けられた罠や落とし穴、罪に誘惑することなどです。イエスが「躓きは避けられない」と言われたのは、世には、意識的に人を躓かせる者がいたり、周りの状況が変化して、その状況が人々に罪を犯させたりすることが必ず起こるという意味です。イエスは社会で起こる人間の罪の姿に深い洞察を持っておっしゃったのです。

  世界の歴史を見ても、これまで、あちこちで、様々な時代にそういうことが起こりました。後から反省すれば、あそこまでしなくてもよかったのにというような、狂気の時代が起こりました。ある哲学者は、「狂気の歴史」と言いましたが、人類は長きにわたって「狂気の歴史」を歩んでいるとさえ言っていいかも知れません。

  私は、戦争はなぜ起こるのか不思議に思います。平和な時代を生きて来たから不思議なのでしょうか。

  欧米では今、第1次世界大戦の100周年の記念行事や原因の掘り下げがあちこちでなされていますが、何故もっと知恵ある人が出て、戦争をくい止める事ができなかったのか。戦争を回避する道をどうして選択できなかったのか、不思議でなりません。

  第1次世界大戦は1914年に起こりましたが、日本も無理やり参戦しました。ほぼ戦わずして、ドイツが東アジアに持っていた植民地を手に入れることができるという計算です。それで、ボロ儲けをしました。だが、第1次大戦は基本的にはドイツと連合国が戦う、言わばキリスト教国同士が戦った戦争でした。キリスト教国が互いに戦ったのです。同じ信仰を持ちながら、いわば信仰の兄弟同士が殺し合ったのです。ただ、12月25日にはクリスマス休戦が敷かれ、10数ヶ所で休戦がなされました。

  先日その記録を見ましたが、昨日まで互いに殺し合っていた兵隊たちが、両者ともに塹壕からオズオズ出て来て、最初は互いにタバコに火を付け合ったり、ウイスキーを相手に差し出して、双方が一緒にクリスマスを守りました。懐かしい旧友に会ったかのように、両軍の数百人が和気藹々(わきあいあい)と休戦の交流をしている映像さえ残っています。それが10数カ所であり、クリスマスが明けてからも10数日間続いた所もありました。

  休戦は可能なのです。だがその後、将校たちが銃声を鳴らし戦争が再開しました。まるで中断していたサッカーが再開されるような不思議な光景でした。これは戦争でなく、サッカーでないかと錯覚を覚えました。

  憎しみの火を消すことができれば戦争は回避できるのです。憎悪の火を焚(た)きつける人たちがなければ、戦争という集団的人殺しは回避できるのだと思います。本当なら国が責任を持って、子ども時代からしっかり戦争を起こさない教育をしなければならないのです。国家は断じて焚きつけてはならないのです。



        (つづく)

                                       2014年8月10日


                                       板橋大山教会 上垣 勝



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