平和のうちに平和を蒔く


                            車窓のアルプス          (右端クリックで拡大)
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                                                   平和のうちに平和を蒔く (下)
                                                   ヤコブ3章18節


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  数年前に亡くなられた、私たちの信仰の先輩と言ってもいい方のことを思い出します。沼田鈴子さんという広島の女性です。

  彼女は広島の爆心地から約1キロにある逓信(ていしん)局に勤めていましたが、8月6日に被爆し、一瞬のうちに左足首を無くし、それがもとで膝関節までが腐り、やがて殆ど麻酔なしで足の付け根から切断されました。当時ならノコギリでひいたのでしょうね。20才の時です。被曝し左足を切断した写真は米軍によってフィルムに収められ、やがて「にんげんをかえせ」の映画に彼女が登場することになります。退院まで4回手術したそうです。こうして足だけでなく、青春をすっかり失い、婚約者は戦死しました。

  一度お話を広島で聞いたことがありますが、大腿部から切断した足を持ち上げた看護婦さんが、後日、「まあ、人間の体についている足、体から離したら、とても重たいもんだね。あんたの足も抱えられんくらい重かったよ」と聞かされ、それまで感じたことのない震えが込み上げて来たそうです。

  女学校を卒業した頃の沼田さんは屈託のない明るい女性でしたが、戦争によって色々のものを失ない、初めて心の底から戦争を憎みました。戦後は長くこの憎しみを鉛のように一杯心に詰めての暮らしが続きました。それでも原水爆禁止運動や原爆の語り部の運動に入らず、原爆資料館にも平和大会にも行かなかったそうです。意識的に避けたのです。

  長くなるので短縮しますが、一度は知人に教会に連れて行かれますが、教会なんかに二度と行くもんかということも経験しますが、やがて弟さんの影響で信仰を持ちます。弟さんの影響と一口で言いましたが、弟さんは予科練崩れで、魂が腐ってしまい、何をしても腐る。就職してもヤケを起こしては自分からダメにする。そんな弟さんがやがてある外国人牧師と出会って立ち直るのです。ですから絶望の中から、壮絶な日々を経て立ち直った弟さんに影響されて、沼田さんも絶望のドン底から立ち直っていくのです。

  信仰に入ると、次第に変えられて行って、既に高等女学校を出ていたので、更に勉強してやがて高校の先生になります。教員をしながら教会に通い、やがて戦争の裏側であったことを学んでいかれるのです。表では色々いいことを言って、政治家は国民の戦意を掻き立てましたが、裏で何がなされていたかに気づいていかれたのです。そしてやがては、戦場となった国々を自主的に回って、日本軍が虐殺した現地の方々、華僑の方々の跡などを巡ったり、どんなに酷いことをしたか、どんなに多くの責任が日本人にあったかを自ら学んでいかれたのです。

  そうこうするうちに、大阪で一番不良青年が多く、大変荒れていると言われるある高校の生徒たちを広島に迎えた時、たまたま彼らに話すことになりました。聞いてみると、沼田さんが写っている原爆記録映画「にんげんをかえせ」を学校で見た生徒たちが、食い入るようにスクリーンを見つめ、会場が水を打ったように静まり返ったのです。涙を流す子もいます。学校全体が荒れ、授業も成立しない高校ですが、これまで学校で見たことのない光景です。それで、荒れた学校を変える一つの賭けとして被爆者の体験を聞く修学旅行が企画されて、沼田さんから話を聞くことになったのです。

  生徒たちにとって大きな出会いでした。しかし沼田さん自身が彼らとの出会いで変えられていったのです。どういうことかといいますと、彼らと出会う中で、被爆の時の状況や戦争に対する憎しみを語るよりも、戦後のご自分のありのままの姿を語るようになったのです。被爆の惨状を語るだけでなく、被爆後の自分の生きて来た道、人を憎み、荒れていたこと、挫折の苦しみ。そして魂の根っこがすっかり腐ってダメになっていたのに、色々な人との出会いが与えられて立ち直っていった自分。その全てを話すようになられたのです。

  これがきっかけで、毎年、平和公園に移されたアオギリの下で、アオギリに起こり自分に起こった話を話し始められました。広島の被爆語り部です。そのアオギリは、元は沼田さんが勤めていた広島逓信局の構内にあった大きなアオギリです。それが被爆して全く黒焦げになって伐採の話も出ましたが、一度は死んだかに見えたアオギリから芽が出始めたのです。沼田さんはそのアオギリに励まされて、自分も生きてみようと、絶望的になっていた自分を奮い立たせるきっかけになった。そういう立ち直りの物語をするようになられました。

  長く沼田さんのことをお話しましたが、彼女は何をしたのでしょう。彼女はヒロシマ平和公園アオギリの前で、一人のキリスト者として、平和の種を蒔き始められたのです。平和の種です。沼田さんの「アオギリの話」を聞きに、その後老人ホームに入ってからも訪れて来る多くの人達に、88才の最晩年まで平和の種を蒔き続けられました。一度は人生に腐りきり、ヤケになり、心が荒れたのです。ところがキリストに救われて、やがて平和の種を蒔く人になったのです。沼田さんの場合は、単に原爆の被害者としての話だけでなく、アジアの多くの人達を過酷な目にあわせた加害者としての話でもありました。イエスの出会い、心に平和を与えられた者として、「平和のうちに」平和の種を蒔いたのです。

  「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれる 」とある通りです。

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  私はあと何年生きるのかと時々思います。私は平和な時代に生きました。しかし、平和な時代に生きた人間は、ただその平和を享受し、それを消費するだけでよいのかと思います。自分が与っている平和を、社会で証しし、再び戦争にならないように、平和を蒔くべきでないかと思います。

  平和な手段で、平和的に、イエスから平和を与えられた者として、平和の人になって蒔くことが大事だと思います。

  争いや戦争の種を蒔かず、平和の種を蒔くのです。紛争を生む人間はたとえ平和を蒔くと口で言っても、平和を産みません。それは平和のポーズだけです。平和を生むには、平和的態度で平和を実現しようとして蒔かねばなりません。これが今年の「平和聖日」にヤコブ書から教えられたことです。

        (完)


                                       2014年8月3日



                                       板橋大山教会 上垣 勝



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