イエスの権威とは


                 2,300mのグリュン・ゼーに沢山の小魚が住んでいました。 (右端クリックで拡大)
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                                                  イエスの権威とは (中)
                                                  マルコ1章21-28節


                              (3)
  さてイエスは、汚れた霊の強い願いにもかかわらず、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになった。すると、「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」とあります。

  イエス様は汚れた霊を叱りつけ厳しく命じられました。絶対的な神の力を持って彼らを強制排除されたのです。すると、その人に痙攣(けいれん)を起こさせて「大声を上げて出て行った。」ワーワー喚きながら出て行ったのでしょう。目に見えない何かが一目散に逃げていく様子が、見えないのにリアルさを持って目に浮かびます。

  これは汚れた霊にとっては非常に厳しい断固たる痛烈な一撃でしたが、本来の男自身からすれば実に喜ばしい解放です。まるで憑き物が落ちたかのように、囚われからすっかり解放されて喜び踊ったでしょう。イエスの権威は人に対しては強制せず、むしる自由を与えます。だが人間の尊厳を犯す汚れた霊には、断固たる力で臨んでいかれるのです。

  イエスは荒れ野の誘惑で悪魔を撃退されました。汚れた霊や悪の霊というのはキリストにおいて既に敗北し、克服され、滅ぼされています。決して勝利することのない存在です。ただ幻影として人をまだ悩ましていますが、既に決済されている。それらは何の将来性も持ちません。ですから、キリストの所に行くなら必ずそれを乗り越えていく道が与えられます。

  これは、彼にとっては命の回復でしたし、救いであり冷酷な力からの救出でした。

  彼の家族も喜んだでしょう。ホッと安心したでしょう。彼が結婚していたのなら、こんな状況の中で離婚を迫られ、彼の絶望感は一層酷いものになっていた筈です。貧しくても夫婦が信頼し合え、何とか支えあっていけば何とかなるものでも、離婚となると、今日では小さな子どもの教育、母と子の今後の暮らし。むろん彼自身の今後の生活もどうなるのか。不安だらけだったでしょう。

  だがイエスと出会い、彼は闇の力から引き出されて救いの光の中に入れられ、前途に明るい兆しが差し始めたのです。

  すなわち今日の出来事が語ることは、イエスの権威とは何かですが、イエスの権威は人間に喜びを与える権威です。絶望の中にいる人に確かな希望を授ける権威です。人間に新しい将来を拓く権威です。神は命の力であるからです。

  イエスの権威は権威主義とは違います。権威主義は他人に対して威圧的で、独善的です。ブルドーザーのように小さな者をなぎ倒しますが、イエスの権威は人を生かす力、育む力、人に希望の明日を与える力です。

  また律法主義は、規則で人を縛ります。人を従えさせ、自分の支配下に置く規則主義です。

  今は奇妙な時代で、一般社会でも最近そういう傾向があるのでしょうか。最近、東京や西東京、あるいはあちこちで、信徒を追い出す牧師が増えています。気に入らない信徒を法に訴えて除名処分にしていく。そんなキリスト教があるんでしょうかね。暫く前の、聖餐問題で北村先生の牧師職剥奪事件以後に急に増え、目に余るほど権威主義的な教会が出て来ているようです。もはやそこには、イエス様が説かれた隣人愛も和解の福音も、口では語られても実質はない。そうなると、イエスがもたらされたあの喜びに満ちた、生き生きした福音はなくなります。大変残念です。もし私がそういう牧師になったら、牧師の方を追い出してください。そういう時には追い出すことができます。

  権威主義の下では、主体的な、独立的な、自主的な、自由に満ちた人間は生まれません。体制依存的な人間のみが生まれて体制擁護的になります。イエス・キリストは、人を縛る力から解放するために来られました。人を伸び伸び生かすため、罪から解放し、社会の中に、主体的に決断して生きる人々を生んで行かれました。

  イエスは神の霊に満ち、聖霊に満ちて荒れ野から帰って来られたと先ほど申しました。イエスに霊が力強く宿り、神の国の福音を悲しむ者や悩む者、柔和な者や平和を願う者、悲嘆に暮れる者らに語り、その福音を彼らの中で実現して行かれたのです。

  その有様をつぶさに見た人たちは、「皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く』」と言ったのです。

  「権威ある新しい教え」とは、 言葉が即、事実になるというような教えです。言葉と事柄が乖離(かいり)していない。汚れた霊に命じられると、それは事実になり、汚れた霊を決定的に排除していく。まさに喜ばしい権威です。

  イザヤ書55章9節以下は、それを比喩的にこう語っています。「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。 雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。」イエスの権威ある教えは、雨や雪のように必ず人々を潤し、実を結ぶのです。

  これは、父なる神との交わりに生きて、その交わりから直接出て来る権威でした。こうして、人々はイエスの言葉の内に神との人格的な直接的交わりから来る権威を感じ取り、言葉を失うほど驚き、非常に深い印象を持って論じ合ったのです。イエスの噂がたちまちガリラヤ中に広まったのは、決して不思議ではなかったでしょう。


          (つづく)

                                       2014年7月27日



                                       板橋大山教会 上垣 勝



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