魂の根っこが病んでしまった


                      2,300mのグリュン・ゼーに着きました。        (右端クリックで拡大)
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                                                  イエスの権威とは (上)
                                                  マルコ1章21-28節


                              (1)
  「一行はカファルナウムに着いた」とあります。一行とはイエスと4人の漁師たちです。イエスは、洗礼を受け、荒れ野の誘惑で悪魔を3度にわたって撃退した後、聖霊に満ち溢れて神の国の福音を宣べ伝え始められましたが、暫くするとガリラヤの漁師たちを加えて、仲間は5人になっていました。その影響力は驚く程の力を持って青年たちに迫ったと言ってよいでしょう。

  カファルナウムはペトロとアンデレの町です。イエスは、この仲のいい兄弟漁師たちの町を拠点にガリラヤ伝道をしていかれました。いわば弟子たちの古里伝道から始められました。

  「イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた」とありますが、カファルナウムには今も古いユダヤ教の会堂・シナゴグの一部が残り、ペテロの家と言われる比較的大きい民家の古い礎石も残っています。

  その会堂で教え始められると、「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と言います。

  人々の驚きはただならぬものでした。悠々として迫らぬ権威を備えたイエス様の人格に触れたのです。むろん演技や背伸びでなく、権威者ブルでなく、自然とその身に備わった権威に触れて、ここに、他の何者にも依拠せず、神の前にただ一人立つ巨大な人物がいると感じたのです。

  「律法学者のようにではなく」とは、先人たちの色々な言葉や解説や例証を引いて自分の正当性を証明し、権威づけるあり方ではなく、ご自分の言葉で、神と人間との事柄の本質を的確に表すと共に、欲するところを実行しうる能力と自由を持っておられること、希望する目的を達成していく能力をイエスの内に見たからで、律法を超えるものを感じて畏怖感を抱き、圧倒されたのでしょう。

  イエスの教えに、まさに今、「神の国は近づいた」こと、イエスと共に神の国がここに来ていることをひしひしと感じたのです。

                              (2)
  「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。』 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。……」 とありました。

  イエスの最初の癒やしは、安息日に、シナゴグで行われました。これはイエスがこの世に来られた目的の一つを象徴的に語っています。イエスは、安息日律法や宗教的規則を超える方として来られ、人は律法や宗教規則のためにあるのでなく、律法や宗教規則が人のためにあることを、最初の癒しで表されました。そのようなことを行うのは身に危険が迫ることですが、それをシナゴグ、ユダヤ教の会堂で行われたのです。これについては後にもう一度触れます。

  「その時、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ』」と叫んだのです。

  男は、イエスの教えを聞いて金切り声をあげて叫んだのでしょう。ナザレのイエス、我々に何をしようとするのだ、滅ぼしに来たのか。我々とあるのは、汚れた霊が大勢、男に入っているという認識があるからです。複数であるのは、この霊の働きが非常に複雑な悪さをし、奇妙な現象となって現れていたということであったでしょう。

  今日で言えば、攻撃的で、興奮型の何かの精神病でしょうか。よく分かりません。ここに、「汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ」とありますが、この叫びは、男自身の叫びなのか、それとも彼に取り付いている汚れた霊の叫びなのか、見分けが付かなくなっている有様を表しています。

  しかし客観的に見れば、これは本来の彼の叫びではありません。彼の口を借りて、汚れた霊が叫んでいると言っていいでしょう。彼自身は直ぐにも助けられたいし、かまって欲しいが、汚れた霊に全くとりつかれて、その支配下に置かれて自分では自由にならない。それで非常に悲観的になり、打ちのめされ、絶望的に自己破壊的になってしまっている。そのために、「構わないでくれ」という汚れた霊の叫びが、彼自身の叫びにすらなっているという状況でしょう。

  叫んだ後、本来の彼自身は、しまったと後悔したでしょうが、しかし自分の今の現実を見て、仕方がないとすっかり諦めたでしょう。

  いずれにせよ、彼が安息日にシナゴグに来たのは、救いを切に求める思いがあったからで、やっとここに身を置いたのです。汚れた霊の方は極力シナゴグのような聖なる場所を避けたかったが、本来の彼は助けを求めていた。そのジレンマの中でここに来ていた。ただ、汚れた霊の方は、まあ、ユダヤ教くらいでは自分たちはこの男から追い出されまいと、タカをくくっていたに違いありません。

  「殺してくれ。死にたい」と叫んで、死にゆく人たちがあります。余りにも苦しいのでそう言ってしまう。だが本心は生きたい。物凄く生きたい。しかし現実に圧倒されて、長く時間が経つうちに魂の根っこが病んでしまって、根っこが病むとなかなか立ち直れません。正常さを失って、本心を素直に出せなくなってしまっている。この男は、それに似た状況です。男自身は汚れた霊に魅入られ、そのことを誰にも分かってもらえず、希望をすっかりなくし、非常に孤独だったでしょう。

  汚れた霊は、「あなたは誰だ、あなたの正体は分かっている。神の聖なるお方だ」と言ったというのですが、人間の目にはつぶさに分からないが、汚れた霊にはそれが分かったというのです。汚れた者である故に、イエスの聖なる力に一層激しく反発を感じた。汚れたものこそ、聖いものを敏感に察知するのです。

          (つづく)

                                       2014年7月27日



                                       板橋大山教会 上垣 勝



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