天国と地獄の裂け目


                        マッターホルン見物客を乗せた登山列車
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                                                     金持ちとラザロ (中)
                                                     ルカ16章19-31節


                              (2)
  ところが、ラザロが死ぬと、「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。」

 この世と天国では価値観はまったく違います。そこではこの世の身分も考えも通用しません。ラザロは、天国で祝宴に着いているアブラハムのそばに運ばれた。アブラハムイスラエルの祖先の代表者、国父のような高潔で偉大な人物です。そこにはアブラハムを始め、イサク、ヤコブと言った信仰者たちが座についています。まるで大事な使者を迎えるように、そんな立派な所に迎えられたというのです。

  「金持ちも死んで葬られた」とあります。だがラザロは葬られていません。金持ちの葬りは立派で勢いがあり盛大だったでしょう。だがラザロは野垂れ死にでしょうか。ゴミのように片付けられ、捨てられたのでしょう。

  人生とは一体何でしょう。生きるとは何でしょう。死とは、葬儀とは何でしょう。お金のあるなしとは何でしょう。箴言に、「金持ちは、自分は賢いと思い込む」とあります。例外を除き、確かに殆どの金持ちはそう思っています。実に穿った言葉です。本当にそうです。人間というのは一体何者でしょう。だが、鼻から息が出ていけば、皆、草のように萎れ、跡形もなくなるのに、生きている間は傲慢に振る舞うのです。

  「金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府(よみ)でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』」

  「陰府」は、仏教の地獄と違いますが、喉はヒリヒリ乾き、炎の中で悶え苦しんでいるとありますから、地獄の業火で苦しめられる光景です。

  先ほど触れましたように、陰府に落ちた金持ちは、生前、ラザロに代表される貧しい人や苦しむ人に無関心でした。門まで来ていてもその隣人にならなかった。富を用いて豪華な宴会はしたが、隣人を愛さない。楽しみはしたが愛はない。自分のしたい放題をしているだけです。金持ちは陰府の底から、アブラハムに、「父アブラハムよ」と呼びかけ、ラザロを送ってくださいと頼みます。

  金持ちは、「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」と願ったのです。陰府に落ちても、まるで当然のごとくラザロを召使のように扱おうとしている姿に驚きます。今なお、金持ちと貧乏人として、人格的出会いや、人間としての対等な態度で彼に接しようとしない。

  ラザロは、地上では貧しさという炎で焼かれ、できものの痛みでのたうち回っていました。腹を空かし、喉をからし舌もカラカラ。信頼して心から相談できる友もいません。野良犬だけが友です。だが金持ちは貧しさや貧しい人間を鼻であしらっていました。

  25節以下のアブラハムの言葉はまさに因果応報的です。彼は旧約の代表者ですから当然です。アブラハムは、金持ちが今、苦しむのを見て楽しんでいる気配さえ感じられます。それ見たことかと言わんばかりの言葉です。「かつて君は良いものを貰い、ラザロは悪いものを貰っていた。今は、彼は慰められ、君は悶え苦しむ。」公平ではないかと言うのです。

  天国と地獄の間には越えられない深い淵がある。こちらからも、そちらからもその淵は渡れない。助けてあげようにも手がない。誰もこの裂け目、亀裂を超えることはできない。「淵」とあるのは裂け目や亀裂のことです。アブラハムの答えは素っ気ありません。

  しかし金持ちは思い直して、ではラザロを自分の所に越させるのでなく、自分の父の家に遣わして、5人の兄弟がこの苦しい場所に来ないように説得するようにして下さいと頼んだ。

  金持ちの心にやっと愛が芽生えた。しかしそれは狭い家族だけの愛です。多くのものを豊かに持ち、あれほど羽振りよく暮らしていたのに、その愛は家族や一族に狭く限定されています。

  アブラハムはそれも退けます。「お前の兄弟たちにはモーセ預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」「モーセ預言者」とは旧約聖書のことです。旧約聖書に耳傾けさえすれば、君と同じ目に遭わなくても済むはずだ。

  金持ちはモーセにも預言者にも耳を傾けなかったから、そこに来てしまったのです。彼がモーセにも耳を貸していないことを一つだけ指摘しますと、彼は「毎日贅沢に遊び暮らしていた」とあることです。毎日遊び暮らしていたのです。しかし、モーセ十戒は第4戒で、「6日間働き、7日目は安息日であるから休め。何の仕事もしてはならない」と命じています。これは7日目は休め、だがそれ以外は働けという戒めです。誰もが6日間汗を流して働いているのに、金持ちは6日間遊び暮らし1週間少しも働かないのです。

  それでも金持ちは、「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中から誰かが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」と執拗に訴えます。押しの強い男です。彼は、「モーセ預言者に耳を傾けるだけでは不十分なのです。旧約聖書に耳傾けるだけでは、悟ることができません。どうにかして彼らがここに来ないように、誰かを遣わして下さい」と頼みます。

  だがアブラハムは頑(がん)として聞き入れません。そして、「もし、モーセ預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と、最後通牒(つうちょう)のように語ったのです。

  モーセ預言者を通し、聖書の神は千年も2千年もかけて忍耐強くイスラエルの民に語りました。押したり、引いたり、宥(なだ)めたり、すかしたり、執拗に粘り強く、陰府に降らないように語ってきました。神は忍耐をもって語ってこられたのです。これ以上の説得はありませんでした。

  だが金持ちは、しかしもし死んだ者がこの酷く辛い経験を伝えるなら、彼らは悔い改めるでしょう。生き方を変えるでしょうと訴えたのです。

  私は、アブラハムの言葉は、人の姿を深く洞察した言葉だと思います。

  死者が地獄から帰ってきて経験を伝えたのではありませんが、これまで飲酒運転で何人もの子どもたちや大人たちがひき殺されて死にました。その酷さがどんなものか、家族が強く訴えてきたし、車の免許更新に行けば必ずその酷さが視聴覚で訴えられます。それでも良くならないため、近年罰則が重くなりました。だが厳罰になってからも、飲酒運転はやまず、2人の幼い命を同時に亡くした親もあります。脱法ハーブを吸って何人もはねた事件が池袋の駅前で最近起こりました。その後も次から次と起こって、後を絶ちません。効果がないとは言いませんが、酷さを訴え、厳罰にしても減少しないのです。たとえこの金持ちの訴えが聞き入れられ、死者の世界から誰かが戻って訴えても効果はそれほどないでしょう。アブラハムの言う通り、モーセ預言者に聞かない限り解決はないかも知れません。

  飲酒運転は近代のものですが、戦争はもっと太古の昔からあり、20世紀以降は大量殺人が更にひどくなりました。ウクライナの戦闘地域で298人が乗ったマレーシアの民間機がミサイルで撃墜された事件。パレスチナガザ地区へのイスラエル軍の侵攻。シリアの数百万人の難民が出ている内戦。吹出物のように、次から次へ人類の内側から湧いてくる罪の吹き出しものです。全て人の心の中から吹き出て来たものです。

  戦争の酷さ、悲惨さは何百年となく訴え続けられて来ました。だがそれでも止むことがありません。一体どうすればいいのでしょう。

        (つづく)

                                       2014年7月20日



                                       板橋大山教会 上垣 勝



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