人の欲望を知るエキスパート


                        1番の選手の前に入ってきました
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                                                  権力と繁栄への誘い (中)
                                                  ルカ4章1-13節


                              (2)
  「そこで、悪魔はイエスに言った。『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。』イエスは、『“人はパンだけで生きるものではない”と書いてある』とお答えになった」とあります。申命記8章の引用です。

  悪魔は、「あなたが、そこまで神の子として生きようというのなら、神の子らしく、この石に命じてパンになるようにしたらどうだ」、と誘惑したのです。神の子であるというイエスの自尊心をくすぐったのです。自負心に向かって誘惑した。自尊心も自負心も名誉心も人の心深くにあるとても大事なものです。それを放棄することは、自分であることや、人間であることをなくすことのように感じられます。だが、それがあるために人間は卑しくもなってしまいます。

  先ほどのパスカルは「パンセ」の終わりの方で、「人間の最大の低劣さは名誉を追求することである。しかし、それこそはまさに、人間の優秀さの最大のしるしである」と語ります。

  名誉の追求、それは矛盾するかも知れませんが、人間の低劣さと人間の優秀さを示すしるしだとは、本当だと思います。

  彼は続いて、「なぜなら、人間はこの地上で、いかに多くのものを所有しようとも、またいかに健康や衣食住の便宜を得ようとも、他人の尊敬を受けないならば満足することができないからである。」鋭いです。

  「他人の尊敬を受けないならば満足することができない」、その名誉欲に向かって、悪魔は切り込んだのです。悪魔というのは人の心を、特にその欲望を熟知するエキスパートと言っていいでしょう。石をパンにすることによって、人々をアッと驚かせ、尊敬を集め、崇(あが)められるようにすればいいという誘惑です。実に巧妙です。

  私たちなら、ヨロヨロッとなってなびいてしまうかも知れません。

  すると「イエスは、『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。先ほど申しましたように旧約聖書申命記8章3節です。マタイ福音書は、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、後半も語られたとなっています。

  イエスがこの言葉を語られたのは、単に知識からではありません。実際に天からの声を聞き、神の言葉から日々、力を得て生きておられたからです。ですから、ルカは書き留めていませんが、言外に、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われたと考えていたと言っていいでしょう。

  「人はパンのみで生きるにあらず。」これは、悪魔の浅はかさへの鋭い指摘です。悪魔は物質主義者ですね。彼は高貴な、高邁な精神を欠く存在です。人間を皮相的に、物質によってしか見ていない。だから悪魔なのです。しかし、彼の物質主義にうまく丸め込まれる人が今日、なんと多いことでしょう。私たちだって多少なりとも丸め込まれています。

  現代は物質主義全盛の時代ではないでしょうか。いずれ物質主義は行き詰まるでしょうが、物質主義は、物欲を全開させて、欲望をもっともっと死ぬまで味わい尽くそうという思いを駆り立てています。

  しかし、物欲が満たされて人は生きると悪魔が考えるように、神は人を造られませんでした。聖書はそう見ています。そこに悪魔の計算違いが、敗北が既にあります。

  イエスは、「人はパンのみで生きるにあらず」と言われました。私などが亡くなった後の次の時代は、物質至上主義でなく、この高き精神から生まれる文化であって欲しいと思います。それが今、世界的に問われていることです。

  椋鳩十(むく・はとじゅ)の童話に、「さいごのワシ」というのがあります。南アルプスの険しい山あい、ある絶壁に住む2羽の大ワシの話です。翼を広げると3mにも達する空の王者です。

  しかし山奥にも幾つも道が作られ、人間が入り、自動車道が網の目のように作られて、餌にしていた小動物が激減し、次々仲間のワシたちがいなくなって、最後に残った大ワシです。

  話はいろいろ展開しますが、童話の最後は、1羽は猟師から撃ち落とされ、もう1羽は片方の翼を撃ち砕かれて、どんなにもがこうにも飛べず、生け捕りにされます。その場で殺すより、生け捕りにして見世物にする方がいいだろうというのです。

  大きな檻(おり)に入れられ、毎日柔らかな美味しいウサギの肉をあてがわれました。ところが、ワシは、食おうとはしない。10日たち、15日たっても、一片の肉切れも口にしない。いかに腹を空かしても、口にしようとしない。まるでイエス様のようですね。

  一度は新しい肉を嘴にくわえました。人々は、やっと食ってくれるかと、ニッコリしました。ところが、そのくわえた肉を、なんと、オリの鉄格子めがけて投げつけた。こんなもの、食えるか!と言わんばかりに。

  20日経ち、飢えは絶頂に達したが食べない。

  25日目に、狩人(かりゅうど)が新しい肉を持っていくと、ワシは鉄格子にガッと噛(か)みついていました。朝日がランランと開いたワシの目に映えて、金色に光っていました。その目はギラギラと激しい怒りを含んでいるようでした。

  恐る恐る近づいても、ワシは動こうとしません。さらに近づくと、ワシは睨(にら)むような目をむいて、鉄格子にガッと噛みついたまま、冷たくなっていたのです。

  ワシさえ、物欲で生きないということでしょう。ましてや人は物欲のみで生きるようには造られていないのです。神によってもっと高貴な存在に創造されている。「人はパンのみで生きるにあらず」の言葉は、そのことを証しています。

          (つづく)

                                       2014年7月13日

                                       板橋大山教会 上垣 勝



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