以前は毎日焦る思いでした


                     今年もツール・ド・フランスが始まりました。
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                                                   喜びは手元にあり (上)
                                                   ルカ6章20-23節



                              (序)
  先週の夏季集会は、種まきの話をもとに懇談しました。良い地に落ちた種は、30倍、60倍、100倍の実を結ぶとありました。

  私は触れませんでしたので誤解されたかも知れませんが、30倍、60倍、100倍になると言われて、「わあ、すごい」と思った方があったかも知れません。しかし60倍でも100倍でも、麦は普通に畑に蒔かれたらそれ位の実を結びます。それがごく普通です。現代の改良品種なら、もっと取れる筈です。一粒から幾本か茎が出てそれぞれに穂をつけますので、発芽しない種を除けばかなりの実を結ぶのが普通です。

  ですから、努力してドンドン出世し、勝ち組にならなければ、「あなたは良い地と言えない」なんて聖書は言っていません。そういう立身出世のことを良い地とかで言っているのではありません。そうではなく、御言葉が実を結び、人々に希望を与える実りとなるかどうかという事です。この世の成果主義ではありません。良い地というのは、豊かに実をならせて、人々に収穫の喜びや希望を与える。すなわち、御言葉により、平和と喜びと感謝が人生に訪れ、神に栄光を帰す希望を作り出す人になっていくという事です。大きな希望でなくていい。社会の片隅で希望を与える人です。

  ですから、仕事の業績や成果について、直接的にイエスは言っておられません。時間的な余裕がなかったので、最後に補ってお話をする時間がなく、今言ったことが1週間気になりました。

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  さて、今日の所に入りますが、皆さんの中に、自分は誰かさんより損をしているとか、自分は社会の中で不遇な所に置かれていると思っている人はいないでしょうか。自分はどうしてこんな嫌な性格なのだろうと、悩む人もあるかも知れません。

  実は今日取り上げるルカ福音書は、マタイ福音書に比べて不遇な立場に置かれています。はい、不遇な立場です。マタイは新約聖書の最初、トップに置かれて、世界の人が新約を開いて先ず目にするのはマタイで、一番注目度が高い。しかもルカは24章しかないのに、マタイは28章もあり、長さの点においても見劣りします。

  ですから、ルカはマタイの影にあって、日陰者の姿をしています。今日の箇所に絞ってみても、ここにあるのは4つの幸せですが、マタイ5章には8つの幸せが堂々と記されていて、マタイの方が超有名です。

  ルカとマタイのもう一つの違いは聴衆です。今日のルカは、「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」とあって、弟子たちだけに語っているに過ぎませんが、マタイでは、弟子たちと一般の大群衆に語っています。

  ルカは不遇だ、日陰者だと申しました。これはルカの短所です。だが、同時にここにルカの長所があります。というのは、ルカはマタイ以上に、イエスが親しみを込め、個人的に弟子たちに語っておられるからです。「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」というのですから、face to face と言うか、顔と顔、目と目を合わせ、親密に語りかけておられる様子が手に取るように分かります。

  物事は努めて色んな方面から、複眼的に見る方がいいでしょう。別の観点から見れば、そこに、既に恵みが届いているかも知れません。神様が試練と共に幸いを与えて下さっているかも知れません。必要なのは、幸いがあるのにそれを見る目が私に欠けており、その目を与えられるだけかも知れません。

  以前に申しましたが、「明珠(みょうじゅ)在掌(ざいしょう)」です。光り輝く明るい珠(たま)、宝物は既に自分の手のひらにあるという意味です。他を探していたが、既に手の上にあったということです。ルカは不遇に見えますが、不遇に見えるその所に既に幸いが来ているのです。恵みが十分届いているのです。

  私は、20年前とは考えが随分変わりました。前は、自分は何もないという思いが強く、焦る気持ちで毎日セカセカ、ピリピリ生きていました。自分の所に神の恵みを何とか強引に引っ張って来なければ、神の恵みは来ないかのような焦る思いでしたから、当然不機嫌でしたね。

  近年は、自分のいる所にイエスが共におられると感じるようになりました。変な例ですが、たとえ地震が来ても、自分が逃げる所に柱が倒れ掛かったり、瓦が落ちて来たりしないという、妙な安心感で生きています。実際はどうなるか知りませんよ。だがこの妙な安心感があるので、地震が来ようが大粒の雹(ひょう)が降ろうが、私の頭を避けて雹が降ってくれるような、そんな気持ちです。禍(わざわい)を免れるというような消極的な思いでなく、喜びは手元にあるという積極的な思いです。

  ペトロは2度目の投獄の時、天使によって救い出されたと使徒言行録12章にあります。天使は、番兵2人に挟まれ鎖に繋がれ眠っているペトロをつついて起こし、鎖を外し、番兵たちを眠らせたまま、第一、第二の衛兵所を過ぎ、重たい門を次々開いて、鉄の門も通って外に出たとあります。私も、なぜか自分の前を主が先立ち歩いて下さっているような妙な信頼があるのです。ただ、余り自信過剰にならないように心掛けなければならないと心しています。

  いずれにせよ、「明珠(みょうじゅ)在掌」というか、不遇に見えるルカ福音書に、素晴らしいものが備えられているし、私たちもそうだと思います。

           (つづく)

                                       2014年7月6日


                                       板橋大山教会 上垣 勝



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