種まきの譬えから考える


                       原野のお花畑からマッターホルン遠望
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                                                種まきの譬えから考える (下)
                                                マルコ4章1-20節
         

                              (3)
  さて、この話はイエスの伝道経験から生まれたものでしょう。4つの土地は、イエスが出会われた私たちのことです。だから、非常にリアルで身につまされます。

  土地は運命的に決まっています。土地は自分の力で良い地になれません。だが、種まき、すなわち農夫は石地も茨の地も良い地に改良することができます。北海道の開拓、開墾の歴史を見ますと、荒地に入植した人たちは大変な苦労でした。キリスト者たちの開拓村があちこちにありました。森林を伐採し、大きな石を協力して掘り起こし、大雪や冷害に見舞われながら、忍耐に忍耐を重ねて、何年もかかって少しずつ畑を広げ、やがて広大な畑にしました。

  石地でも茨の地でも、どんなに酷い荒蕪地(こうぶち)でも、掘り起こし、切り倒し、焼き払い、容易なことではありませんが、土地を改良する意志さえあれば出来ます。しかし、「世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」とあるように、思い煩いや富の誘惑や欲望を断ち切れないため、誘惑と欲望のぬるま湯に浸かり、悩みつつドップリ浸かっている。すると茨は益々茂ります。そこに問題の根があります。本人も問題の所在は分かっているが、新しい一歩を踏み出せないのです。罪の甘えのため、実を結べなくなっているのです。石地や茨の地を切り拓き耕すのは容易ではありませんが。

  だが、イエス様は十字架について、肉を裂き、血を流してまで、私たちを愛し、耕して下さいました。その血によって私たちは救われ、肥沃な良い地に改良して下さったのです。農夫であるイエスは、私たちが従順なら、石地も茨の地も、鍬を持ち、手に血豆を作って良い地にして下さるのです。茨で刺され、引っかかれ、血を流しても私たちを実を結ぶ良い地にして下さるのです。

  昔、ヤクザから牧師になった人の伝記を読みましたが、同じ組の数千人から命を狙われた人でした。人生の前半はまさに石だらけの悪い地でした。茨も茂っていました。しかし十字架のイエス聞く耳を持った時、聞いて受け入れた時、変えられたのです。良い地に変えられたのです。そこには忍耐とイエスにどこまでも従う強固な意志がありました。ヤクザから抜け出すだけでも並大抵なことではありません。今も牧師として良い働きをしておらる筈です。

  今日の箇所に、「よく聞きなさい」「聞く耳のある人は聞きなさい」など、「聞く」という言葉が何度も出てきます。何度も何度も、聞きなさいが語られ、良い地というのは、「御言葉を聞いて受け入れる人たち」だと言われました。これだと思います。御言葉に耳を傾け、それを受け入れ、自分の手ではどうしようもない石地、しかも茨が繁茂して、自分も他人も傷つけ、自分と他人の人生を一杯傷つけてきた茨ですが、イエスに自分の中で働いていただき、取っても、取ってもまた生えてくる頑固な茨を、根こそぎごっそり取りのけるために、血豆だけでなく全身血だらけになり、汗水流して良い地に作り変えて頂く。深く耕して頂く。

  そのために「聞く耳のある人になる」、イエスに対して従順になる。その時に作り変えて頂けるでしょう。自分の力では変わらないのですが、キリストは作り変えて下さるのです。徐々にでも変えられる。自分に諦めてはいけない。

  Aさんは道端、Bさんは石地、Cさんは茨の地、Dさんは良い地というのでなく、全ての人が良い地になる。良い地になるかどうかは良い耳を持つかどうかにかかっている。自分の地は運命的なものではありません。変えられないものではない。それぞれの地、それぞれの人はイエスによって作り変えられるのです。そういう希望を持って進みたいと思います。4つの地全てに種が与えられたのです。ここからすれば、どんな人にも神の恵みは授けられているという事です。いかなる人も神の恵みの支配下に置かれているのです。

  また、私が作り変えられるように、他の人も作り変えられます。奴はもう変わらないと考えてはならない。彼もまたイエスの手の中で変えられると信じたいと思います。

  ここでイエスが言われるのは、み言葉が蒔かれると必ず御言葉を受け入れる人々がいるという事実です。必ず実を結ぶ人達がいるのです。良い環境にあるから良い地なのではない。環境は悪くても良い耳を持つ人です。その人たちには、平和と喜びと感謝が人生に訪れ、希望を作り出す人になっていくという事です。

  そして、救い難き者、地獄に落ちるべき者のために、ご自分を十字架に磔にして捨てて下さったイエス。愛を受け取るにふさわしくない者をも愛して下さったイエス。この方の御言葉を私も受け入れる時に、希望が湧いてくるのです。イエスの命に触れますから命が湧いてき、心配いりません、その人なりに仕方で必ず実を結ぶのです。

                              (4)
  今日はこの後の夏季集会の懇談でここをお話いただきます。長くなるので終わりますが、12節以下の「外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」は、難解な箇所です。まるでイエスに近い人以外は、イエスの真理が理解できないように、彼らが頑固になり、赦されることがないように、意図的に譬えで話されたと言っておられるように聞こえます。

  ここはイザヤ書6章9、10節の引用です。この6章全体と、ローマ書11章32節からこの箇所を考えてみてください。何かヒントが見つかると思います。


      (完)

                                        2014年6月29日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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