内なる母性が点火されました


                    高原の原野で咲き乱れる花たちに魅了されました(2)
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                                                種まきの譬えから考える (中)
                                                マルコ4章1-20節
         

                              (2)
  これがあら筋ですが、弟子たちが譬えの意味を尋ねたのがきっかけで、13節以下で、イエス様の説明が記されています。

  イエスは、種まきは御言葉を蒔く人であると言われたあと、「道端のものとは、…御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐサタンが来て、蒔かれた御言葉を奪い去る。 石だらけの所に蒔かれるものとは、…御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、根がないので、しばらく続くが、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐつまずいてしまう。 他の人たちは茨の中に蒔かれるもので、彼らは御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は100倍の実を結ぶのである」と言われました。

  道端は、畑と違い平らです。道端に落ちると、小鳥はどこから見ているのか降りてきて啄(ついば)んでいます。現代でも、路上で、人目につかないほど小さい何かを啄んでいます。

  道端は踏み固められています。そんな固い所は、根を下ろせません。そのように、御言葉をせっかく与えられても、素直に受け付けず、突き放してしまう人ということでしょう。

  サタンが来て、とあります。サタンとは元々、中傷する者という意味です。人を中傷し、神をも中傷する者です。神と人の間を引き裂く存在という意味でもあります。御言葉がその人に根づくとサタンにとって危険なので、すぐ御言葉を奪ってしまうということでしょう。何か理屈をつけて、御言葉を殺してしまう。投げ捨ててしまう。本人は大事な言葉だと分かっていても、それより他の方がもっと大切だとうまく思わせ、サタンの誘惑に乗せられて、直ぐ他のものに飛びついて御言葉をすっかり忘れてしまうように仕向けるのです。比喩的に語られていますが、確かに思い当たるフシがあります。

  こうして、子ども時代に、青年時代に、大人になってから、また色んな機会に、せっかく御言葉が蒔かれたのに、跡形もなく消滅してしまうというのでしょう。もちろん反対に、子ども時代に蒔かれて、大人になって芽が出ることもあります。

  次の、「石だらけの所」は、「御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れる」とあります。元々土の薄い石地は、太陽が昇り土が温ためられると、すぐ芽が出ます。だが土は薄いので根は張りません。だから日が昇ると焼けて枯れます。これは興奮型です。熱しやすいが、冷めやすい。反応は早いが、持続しない。

  根がないのです。だから「艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。」これは他人事ではありません。艱難が来ると、神の存在を疑い、そこまででなくても、自分は神から見放されているのでないか、呪われているのでないか、信仰者失格でないかと自分を責めて、信仰が冷めてしまう。反対に、神を呪ってしまうことだってある。艱難の時というのは、次の飛躍の準備期間なのですが、過剰に反応してしまって、それがフイになる。

  今、NHKの朝ドラで「花子とアン」というのをしています。村岡花子さんの実話をもとに脚色したドラマですが、実話から相当離れています。特にキリスト教がほぼすっかり消されています。彼女が働いているのは、今の教文館の前身ですが、そんなことは素振りにも出てきません。お寺とかなら表に出すでしょうね。彼女は幼児洗礼を受けたキリスト者ですし、結婚する相手もれっきとしたキリスト者です。そんなものがすっかり消されている。NHKは酷すぎます。まあそれはそれでいいことにして、試練こそ人間を飛躍させるのです。

  テレビではまだ結婚していませんが、やがて結婚して男の子が生まれます。利発な可愛い子どもです。ところが6才の時突然の疫痢で亡くなります。血を吐かんばかり看病し祈ったのですが、聞き入れられなかった。

  弔いの日、「すべては神のみこころだ」と聞かされ、牧師が言ったのでしょうが、猛烈に反発するのです。で、告別式の間、ずっと神を呪っていたのです。何ヶ月も悲嘆の中で泣き暮らし、なぜ、自分の子が、なぜ、自分たちの家庭がこんなことになったのかと思って、絶望のどん底に落とされます。

  その絶望のどん底で、100日程が経ったある日、「神はその独り子を賜うほどに世を愛したまえり」(ヨハネ3章)という言葉が心に聞こえるのです。その時から、「独り子を与えて惜しまない愛」とはどういうことかを考え始めるのです。自分も独り子を亡くしたが、神も独り子を亡くしたのです。

  そうこうするうちに3カ月半ぶりに1冊の本を読みます。読み終わって、啓示に似た閃(ひらめ)きが起こったのです。村岡花子さんは次のような意味のことを書いています。「私は子を失って、初めて子を愛する道を悟りました。世を去った道雄は、私の内なる母性に火を点じてくれた神の天使でした。一度燃やされた母性の火を感傷の涙で消すのでなく、高く高くその炬火を掲げて、世に在る人の子たちのために、道を照らすことを、私は願う。…」

  子どもを失ったが、日本中の子供たちのために上質の家庭小説を翻訳しよう。こうして一人の母としての母性が、広く普遍的なものに成長し、発展して行くのです。息子の死が、「小我より真我」を目指す再出発になっていきます。(村岡絵里著「アンのゆりかご」)。

  こうして艱難が、母として、人間として、信仰者として、村岡花子さんを飛躍させていったのです。

  ところがそうならずに躓いたままである場合があるわけで、ましてや、「御言葉のために迫害が起こると」、信仰の躊躇が起こり、躓きが起り、まだ迫害が起こっていないのに、「起こりそうだ」というだけで、教会から離れる人たちも生まれることがあります。信仰が暮らしに関係してくるとビビってしまう。「すぐに」躓いてしまうとおっしゃった所に、その辺りのニュアンスが含まれています。

  信仰は感情や情緒ではありません。感情もありますが理性の行為です。ここに信仰の神学的な理解が必要になります。それはキリスト教信仰の確かな深い根を持つことです。その根はイエスの愛が深く理性に入り込むことで生まれます

  御言葉が、自分に与えられたかけがえのない言葉になると、自分の中に根となって張って行きます。キリストが、我がために贖(あがな)いの死を遂げて下さった、十字架の愛は他でもない、私のための十字架ですが、イエスは死すべき我がために決定的に死んで下さったと深く理性で受け止める。パウロは、「私はイエスの焼印を身に受けている」と語りました。キリストの恵みが焼印となる程に、強く身に焼き付く。それが大事です。すると少しのことがあっても動揺せず、乗り越えていけます。

  次に、「茨の中に蒔かれるものとは、御言葉を聞くが、 世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」と言われました。これは多くの人が味わっていることです。

  麦は、茨より先に芽を出します。所が、後から芽を出した茨はどんどん大きくなり、やがてすっかり麦を覆ってしまいます。背丈の高い茨が日陰になって、麦はヒョロヒョロと背は伸びますが、実は結ばない。麦の穂はついていますが、何も実が入っていません。「世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」実に聞くべき言葉です。

  だが、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」と言われたのです。

  御言葉を聞いて受け入れ、自分を主に明け渡す。すると自由が生まれ、楽になるのです。今の文化は欲望を掻き立てる文化です。何とかして欲望を掻き立てお金を出させる。昨日もテレビで、日本にカジノを誘致しようとしていると言っていました。何千億円の利益を見越しています。政府丸抱えで人の欲を掻き立てようというわけです。私たちはこんな誘惑に打ち克つ人でありたいと思います。


      (つづく)

                                        2014年6月29日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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