骨は折れるが、多くの美しさが生まれる
リッフェルアルプ駅で
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音色の美しい教会 (中)
エフェソ4章7-13節
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今お話したのは、教会というのはキリストに向かって成長し、「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」ということでした。しかも、教会は「キリストの体」だと言われますが、そこは、互いに異質な者や役割の違う者たちが、キリストのもとに集められ、1つにされたところであるという事です。
ですからパウロはコリント前書で、教会を身体に譬えます。目と耳は機能が違います。口と鼻の個性も働きも別です。目が耳に向かって、俺のようになれとか、口が鼻に、俺の上に座るな何て言えません。互いに異質ですが、異質なものが寄り集まって一つの生命体を作っているところに素晴らしさがあります。みなが目になり、みなが口になったら体は生まれません。
教会の中で、以前は互いに敵対していた者らが、キリストにおいて1つにされる。いや、今もいざこざが起こっているかも知れない者らが、互いにキリストの血で贖い取られた者だと悟る。それが、「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」と言われている教会です。
会社でも、家庭でも、どんな場所でも共通しますが、和解には赦しが必要です。相手を変えるためではありません。無論変わってもらいたい。だが、変わらないかも知れませんが、単純にキリストの言葉に従うためです。イエスに対する自分のスタンスを表すためです。例えば、口をきかなくなったが、こちらから口をきくのです。敗北ではありません。単純にキリストに従う生き方です。この単純にキリストに従うという事が、神のご支配、終末を待ち望む姿勢であり、一切の膠着状態を打開するために重要です。個人だけでなく、国々の間でも同じです。
教会とは、役割の違う異質な者が和解している所です。異質な者が和解している。だから和解の福音を、喜びを持って、大胆に、まだキリストを知らない人たちに語ることができます。
だが異質な者が和解していないなら、和解しないだけでなく異質な者を排除する教会なら、和解の福音を喜びを持って語ることはできないでしょう。もし足元で和解がないのに和解を説いたら、偽善です、偽りです。そんな教会は信用できませんよ。
異質な者というのは、意見が衝突します。一緒にいると疲れます。骨が折れ、きついです。だから異質な者は追い出したいのが人情です。だが追い出してしまえば、せっかく豊かさや幅が生まれる素地がなくなり、やせ細ってしまいます。
新聞である方が、「現実の組織は、基本的に不愉快で居心地の悪いものだ。居心地の悪い組織こそが現実の社会だ」と書いていました。人が集まるところ、ほぼどこでも色々の問題を抱えています。だからといって、同じ考えを持つ者だけで全体を統一してしまうと、必ずその社会は視野が狭くなり、やがて衰退します。
しかし異質な者が和解している時、そこに多くの美しさが生まれます。美しい響き合いが生じて来ます。キリストの体なる教会はそれです。
最近の現代音楽は不協和音をも取り込んで曲が作られているといいます。音楽の分野でそこまで進化したのは、人間社会において、異質な響きを立てる人さえ取り込んで、対話して、より高度な社会を成り立たせていくことへと社会が向かっていこうとしているからでしょう。
5月に、テゼ共同体にまた一人のブラザーが加わりました。中国人青年です。その時ブラザー・アロイスさんが話したものを読みましたら、こうありました。「私たちブラザーにとって一番重要なことは、お互い同士がブラザーであることです。すなわち私たちの間におられるイエス・キリストの善いものを実現することです。私たちの共同体が多様性を持っていることは、共同体生活は骨の折れるきついことであるということです。だが、それは同時に、多くの美しさを授けてくれるのです。」
現在、百数十人からなるブラザーの出身国は、数十カ国にのぼるでしょう。凄いと思います。その上、幾つもの教派の出身であり、異なる文化圏から来ています。習慣も言語も違い、互いに出身国が敵対しているブラザーもあります。これは確かに骨の折れるきついことでしょう。だが、この違い、それこそが多くの美しさを与えてくれるという発言は素晴らしいことです。
世界の青年たちは、こう言うところに惹かれてバックパック姿でテゼに向かうのです。そこに、イエスの福音が今も響いているからです。
(つづく)
2014年6月22日
板橋大山教会 上垣 勝
ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/
教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif
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