男は闘争的なのですが


                      11ヶ月の赤ちゃんとアルプスのウオーキング
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                                                  音色の美しい教会 (上)
                                                  エフェソ4章7-13節


                              (1)
  今日の13節に、「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」とあります。

  「私たちは」とありますが、これは私たち個々人も含みますが、むしろ「私たち教会は」ということです。エフェソの信徒への手紙は教会がテーマで、エフェソという土地で教会をどう立てるかを語っている手紙です。

  「キリストの体なる教会」は個々人から成りますが、教会自体がキリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長すると語るのです。「キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長する。」何と前向きで素晴らしいことでしょう。これはあらゆる教会が目指すところですし、私たち大山教会の目標、目指す所もここにあるでしょう。15節には、「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」とあります。そういう永遠に向かってどこまでも歩みたいと思います。

  聖書は、私たち人間は偶然に生じたのでなく、神により、神の愛によって造られたと告げています。神が求められることは特別なことではありません。単純に、ただ、「あなたが本来ある所のものになりなさい」ということだけです。「神があなたを愛しておられる故に、神に愛されている人間でありなさい」、また「神に造られた存在として、神の方に顔を向けて生きなさい。」多くの植物が光に向かって育つように、あなたも、闇に向かってでなく光に向かって、神に向かって生きよという事です。キリストが来られたのも、この神の愛を示すためです。

  そして、神に造られ、神に愛されているということは、いかに計り知れない豊かさと意味を持ち、キリストの愛はいかに大きく、広く、長く、高く、深いか。その御心は、人間をはじめ、すべての生物、自然環境、天地万物に満ち満ち、森羅万象に満ち溢れていることかということです。特にイエスの十字架に示された神の愛の深さは尽きせず、計り知れないものがあります。

  それが、今日の、「キリストの満ち溢れる豊かさ」という言葉で言い表されている事柄です。キリストの満ち溢れる豊かさを測るのは、スプーンで大海の水を計るようなものであって、どだい不可能です。私たちは神の御名をほめたたえる以外にありません。人間はこのお方を賛美するために造られていると聖書にありますが、この方に感謝し、喜ぶように造られているのです。

                              (2)
  キリストがそれ程の「満ち溢れる豊かさ」を持っておられる故に、1章10節は、「時満ちるに及んで、あらゆるものが頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」と語ります。また、「天にあるものも地にあるものも、キリストのもとに一つにまとめられる」ということが終末に起こると語ります。キリストに満ちあふれている豊かさは、宇宙もそれを入れることは不可能です。

  キリストは12弟子をお選びになりました。ガリラヤの漁師たち、無学な者たち。やがてイエスから、「サタンよ、引き下がれ」と厳しく叱責されるペテロも。また、ボアネルゲ、雷の子と渾名(あだな)された、激怒しやすく切れやすいヤコブヨハネ。そして一般の人達からも見下げられていた徴税人マタイ。疑い深く、イエスの復活を信じない懐疑家トマス。また卑怯にも、接吻を持って裏切るイスカリオテのユダ

  弟子たちの人材は実に多様で、温厚で静かな者もいますが、荒くれ者や、懐に短刀を忍ばせる者、嫉妬深い者や競争意識の強い者、始末に負えない者など、一つに束ねることが難しい者たちです。それにも拘らず、イエスは彼らを1つにして導かれました。

  エフェソ書は2章14節以下で、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」とあります。

  キリストはご自分の血において2つの敵対する者を1つにされたのです。エフェソ書の中心メッセージはここにあります。だが、既に12弟子の選びにおいて、12人を1つにされたのがキリストです。敵意や隔ての壁を持つ異質な者たち。水と油のような者たち。意見が合わない者たち。反りが合わないという事は疲れますが、キリストは十字架を通して、彼らの隔ての壁を打ち壊し、平和を来らせられた。

  昔と違い、今は平和学という学問があります。大学でそう言う講義がなされ学部もあります。日本だけでなく、政府は対立を煽りますが韓国にも中国にも、世界であります。世界の人々はそれだけ平和への志向が強いのです。「キリストは十字架を通してその隔ての壁を打ち壊し、平和を来らせられた。」キリストがもたらされた事は、今日の国際社会において重要な意味を持っています。

  キリストは、この多様な性格や資質の者たち、男というのは闘争的で競争意識が強い動物ですが、そういう者らを豊かな多様性を持つ者として、十字架において堅く1つに結び付けられました。キリスト教は本質的に平和を目指しています。


                              (3)
  今日の7節に、「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」とありました。 そして、その恵みを授けられることによって、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき…」と語るのです。

  この箇所は暫く前の祈祷会で学んだ所です。そこで私たちが教えられたのは、使徒とは12使徒でイエスに親しく接した人々、また復活の証人とされた人たちです。パウロも入ります。次の預言者は、新約時代の預言者ですから旧約時代と違い、神の言葉を携えて教会から教会へ巡回しました。家も家族も持たず、定住もしなかったようです。福音宣教者は今日の宣教師に近い人たちで、世界に出て行き、ノン・クリスチャンにイエス様のことを伝える。いわば「福音の一兵卒」です。次の牧者は、群れを守り導く人です。異教からキリスト教に入った人たちが逆戻りしないように骨折ったのです。最後の教師は、当時は書物がざらにありませんので、イエス伝や福音物語を語って聞かせる人々です。異教から来た人たちにキリストを物語ったようです。

  こうして彼ら、「聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき…」とあるように、これらの人は各々役割は異なり、上に立って教えたり諭したりする訳ですが、その任務の本質は「奉仕の業」である。キリストの体を建てるため、実際的奉仕のために、選ばれたのであると語るのです。

  彼らは「聖なる者たち」と呼ばれたのですが、聖なる者と言われて祭り上げられるのでなく、進んで人の足を洗い、清め、慰め、取りなし、仕える人として適した者とされたのであるということでしょう。

  上に立つ人の陥りやすい誘惑は、口で商売をすることです。自分の知恵により頼み、仕えることなしに人を導こうとする。だがキリストはそうするように彼らをお選びになったのでなく、仕えるためにお選びになった。非常に大切なことが語られています。

         (つづく)

                                        2014年6月22日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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