こころが匂ってきます


                   アルプスの一つ目お化けがグリュンぜーへの道にありました。
                                             (右端クリックで拡大)
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                                                   真理の柱である教会 (中)
                                                   Ⅰテモテ3章8-16節


                              (2)
  以上を総括するかのように、次に、「清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません」と申します。直訳すると、「清い良心を持って、信仰の深い真理を掴んでいる人」という事です。

  清い良心と信仰の深い真理を生活に堅く結びつけて持っているのです。良心の中に、密かに秘められた形で真理を持っている。大きな看板を掲げ、大っぴらに誇大宣伝をする必要はないのであって、秘められた形で真理を心の奥に堅く持ち、真理に僅かでも養われようとすることが大事です。そういう堅実なあり方が大事です。

  信仰を演じていない。むろんです。演じていてはどんなに清く見えても偽りでしょう。

  私たちの母教会である信濃町教会が創立90周年を迎えて、教会月報の創刊号から最近号まで、主なものを編集した本を出版されました。創刊号にこんな文章がありました。1933年、昭和8年のものです。

  「待ちに待ちました会報がいよいよ発行されるようになりました。…礼拝に欠かさず出席を希(ねが)いながらも許されない方に、先生のお説教を洩れなくお伝え致したい思いがこれによりて充たされ嬉しく存じます。また求道の方をお尋ね致す時にも用いさせて頂きたいと願っております。時には砕けた伝道説教が載せられましたら幸いでございます。一度地方会員になりました経験を致して見ますと、委(くわ)しい教会の様子がどんなに知りとうございますか。地方にて祈り支えておいでの方々に、生きた力としてこの会報が運ばれて参ります事でございましょう。また、長い病床の方と語り交(か)わす良き仲介となります事は病床の方にとりてどんなに慰めであり、教会と同じところに立たしめられますことはどんなに感謝でございましょう。また常に集会に出られます者でも、自分の属しております団体以外の各団体(婦人会、壮年会、青年会など)のお一人お一人をも存じ上げることが出来ましょうし、ほんとに教会全体、内面的な一つの連なりを覚ゆる事を期待しております。腹蔵なきご意見や、信仰の経験、ご研究が発表されます事を楽しんでおります。…」

  礼拝に欠かさず出席したいと願いながら果たせない人々、求道中の人々のこと、地方会員や病床の人たち、教会内の他の人たちなど、想像力を働かせながら会報を他の人たちのために用いていける喜びを書いておられます。何と清々しい心をもってお書きでしょう。

  また若い女性の方がこう書いていました。「…女子青年会はこの頃色々な悩みを経験致しました。人の思いや言葉によって麦の如く篩われて十字架の主の前に確とした立場を持つために苦しみました。しかし今は、私共は十字架の主を仰いでおります。サタンが潮の如く押し寄せて来ましても、主の軍は私たちのものであります。私たちには確信があります。私たちは一筋に単純に信仰の道を辿らせて戴くのみです。良心的に勇敢に、しかも真の愛より出づる思いやりと慎みと忍耐と寛容をもって。」

  80年前に書かれたお二人の文章ですが、今もどこかしら清い心が匂ってきます。この方々は、そういう清い良心を持って信仰の真理を心に秘めておられた方なのでしょう。今日の9節を具体的な例で言えば、こういうことでしょう。

  いずれにせよ、「清い良心の中に信仰の秘められた深い真理を持っている。」奉仕者にとどまらず、時代を超え、このことの大事さはどんなに強調しても強調しすぎる事はないでしょう。

  次に、奉仕者は、「審査を受けるべき」だと言います。一人の目でなく複数の目で審査をする。キリストに従おうと、謙虚に奉仕したいと思っているかを確認する。人に仕えようとする思いが本物かどうかを調べる。そうでない場合、それはその人のためにも良くないからです。

  こうして、「非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい」と言っています。初代教会は、この前の監督や今日の奉仕者の任命にいおて、相当厳しく選抜したようです。それは教会というものが何かを知っていたからです。それはこの世に由来するものでなく、神に由来し、真理の柱また真理の土台を成すものであるからです。

  そのことは後から触れますが、次に婦人の奉仕者について、「婦人の奉仕者たちも同じように品位のある人でなければなりません。中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません」と記しています。婦人も男性も同じ厳しさで奉仕者が選ばれました。「品位」は全く同じです。これがなければ、人に仕えることも、多くの人をまとめ導くこともできないと考えたのでしょう。

  ここでいう品位は、学識経験とか、教養とか、家柄や育ちから来るものでなく、キリストに自分を明け渡し、自分を献げて神の栄光を表わそうと、この一点を目指している時に、どんな人にも備わるキリストにある品位です。

  婦人は、「中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません」とあります。ゴシップ好きで、奉仕者がゴシップ話をあちこち振りまいていては、キリストの体である教会は立ち行きません。ましてや教会は真理の柱や真理の土台であることはできません。

  機会あるごとに誰かを中傷し、人のあら探しをして語っているのでは、これも教会を壊すことはできても、建設はできません。「節制し」とあるのがそれです。自分を厳しく戒め、律しなければならない。食欲の節制ばかりじゃあない。もっと大事なのは唇を制し、節制することです。

  そして、「あらゆる点で忠実な人」であること。最近は、ブレないなんて言います。ただ、忠実であるのとブレないのとでは違います。ブレないとは非妥協的で、自分を押し通す頑なさでもあります。だが忠実とは、あるものに対して誠実であり、信実であり、忠義であることです。ここの場合はキリストに対する忠実であり、あらゆる点で誠実を尽くす人であることです。

  街でシスターを見かけると、十字架を首に掛けておられます。ロザリオも持っておられるでしょう。いつもキリストに信実であろうと心に決しておられるからでしょう。十字架の飾りのネックレスを掛けるのとは意味が違います。

  「一人の妻の夫で」とは、この手紙はエフェソにいるテモテに宛てて書いていますから、ギリシャ・ローマ社会は一夫多妻がおおっぴらでしたから、しかしキリストに導かれ、ましてや奉仕者である男性キリスト者は一夫一婦であることを重要な条件にしたのです。また子どもたちと家族をよく治めている人であることです。

  よく治めるとは、むろん腕力や威圧的な態度でではありません。家族から信頼され慕われるあり方です。そういう信頼が家庭でなされていなければ、どうして他の人たちが信頼して話を聞くでしょうか。

  最後に、「奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになるからです」と書きます。「大きな確信を得る」というのは本当だと思います。その実務的な奉仕によって神への信仰が本当に身につくでしょう。しかし、「良い地位を得る」となぜ書かれたのかよく分かりません。地位という言葉は、原語では「評判」の意味もありますから、「良い評判を得る」くらいではないかと私は思います。良い地位を得ようとして奉仕を立派にするようになると、不純な動機が入って来はすまいかと思います。何か別のの事情があったのでしょうか。今では分かりません。

       (つづく)

                                        2014年6月15日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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