脅しに屈しない人たち


                   3089mにある山の上の教会(ゴルナーグラートで)
                                               (右端クリックで拡大)
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                                                 聖霊に満たされた人々 (中)

                                                 使徒言行録2章1-4節


                              (2)
  ペンテコステの出来事はここで終わりません。これは、ほんの入口であり序章です。ここから始まり、弟子たちの心の内に起こったことが、まるで容器に注がれた水がやがて満ち、外に溢れ出るように、周りに溢れて流れ出ていきます。

  聖霊の降臨、ペンテコステは、こうして起こった一連の出来事です。それは、別の言葉で言えば、人類の歴史に神が介入され、弟子たちが造り変えられ、キリストを大胆に証する者にされて行く歴史です。41節には、人々は洗礼を受けて、この日一日だけで3千人程が仲間に加えられたと書かれています。

  人類の歴史の中に介入された神の手。それが初代教会だけでなく、その後2千年間、野蛮で下劣な色々な国と社会の中に働かれて、当時のギリシャ・ローマ世界は相当な淫乱と暴力が蔓延(はびこ)っていましたが、キリストの福音が、徐々に乾いた大地に水が染み込むように染み込み、潤して行きました。もしキリストの福音が人類の歴史に染み込まなければ、2千年経っても、決して今日のような平和な社会を享受できなかったでしょう。

  日本においても、平和憲法に表されているような反戦平和の精神は到底手にできなかったでしょう。今、憲法9条を持つ日本国民にノーベル平和賞を与えられるようにという取り組みがありますが、神のみ手は今日、このような所まで働いているのです。世界に誇れる平和憲法を手にしていることを感謝したいと思います。

  歴史は揺り戻しがつきものですが、それでも「平和を実現するものは幸いだ」と主イエスが教えられ、「平和を求めて、これを追え」とある御言葉は、キリスト教会の行動規範です。戦争でなく、平和を求めてこれを追求していく。これに固執したいと思います。

  2千年の教会の働きは、ゆっくりと神の国を目指しています。ゆっくりです。焦ってもダメです。だが確かに神の国へ歩んでいます。世の力が強いと思って鞍替(くらが)えし、この世に迎合してはいけません。

                              (3)
  いずれにせよ、五旬祭の日にペンテコステの最初の不思議な出来事が起こり、神に対する畏れが広がったのです。

  そんなある日、3章にありますが、ペトロとヨハネが、「美しの門」のそばで乞食をしている、生まれつき足のきかない男から施しを乞われた時、「私たちを見なさい」と言った後、「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じて、右手を取って彼を立ち上がらせたと書かれています。すると生まれつき歩けなかった男が歩いたのです。躍り上がって歩き回ったのです。信じ難いことです。

  驚く民衆に、ペトロは、「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。…あなた方の見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスのよる信仰が、あなた方一同の前でこの人を完全に癒したのです」と語って、私たちではありません。イエスです。復活のイエスの名を信じる信仰が彼を癒したのです。断じて自分たちではないと証したのです。非常に透明な信仰を告白した。

  これが原因で、祭司や神殿守衛長たちは、禁止されている復活のイエスをペトロたちが説いたという嫌疑で逮捕して牢にぶち込み、翌日、議員や長老、律法学者たちが尋問したのです。しかし、ペトロは上に立つ権威を恐れませんでした。聖霊に満たされて、キリストの復活を証し、男を癒したのは復活の主だと、ここでも証します。

  4章8節でこうあります。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるなら、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」

  ペテロは冷静です。事実を事実として述べているだけです。興奮も激してもいません。淡々としています。

  そして、大胆に、語ることを禁じられているイエスを証ししたのです。12節に、「他の誰によっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名の他、人間には与えられていないのです」 とあります。

  議員や他の者たちはその態度に、圧倒さたのでしょう。13節で彼らは、「ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。」

  それで、イエスの話がこれ以上民衆に広まらないように、2人を脅してから釈放しようと、2人を呼びつけ、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」のです。だが、それを聞いた2人は、19節で、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えて下さい。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と大胆にも言い放ちました。

  彼らは少しもひるんでいません。正々堂々としています。権威者たちの方がコソコソしています。

  次に4章23節以下で、二人が釈放されて仲間の所に帰って来ると、「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。」今や、一つになって喜びの声を上げ始めた。

  そして、「『主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。…主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。 …』」と切に祈りました。聖霊に導かれ祈った。祈り終わると、「一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」のです。

  長々4章半ばまでを辿りましたが、今お話したことを振り返りますと、この時の弟子たちは、五旬祭の前とは根本的に違います。今や、喜びに溢れ、顔を輝かし、心を一つにして祈っているばかりか、彼らの脅しに果敢に立ち向かおうとしています。大胆に御言葉を語り、証しできるようにして下さいと、世の中にいで立って福音を宣教して行こうとする彼らの姿がヴィヴィッドに映し出されています。

  五旬祭前はまだ教会になり切っておらず、海のものとも山のものとも分からなかった一団が、聖霊によってまさに教会になったのです。カナの婚宴の葡萄酒のように、水が上等の葡萄酒に変えられたのです。

  固い殻が打ち破ぶられ、喜びの集団に変えられ、社会の脅しにも関わらず、それに屈しない信仰、自由の溢れる集団になり、みな感謝をしながら祈りをする群れになっていったのです。


          (つづく)

                                        2014年6月8日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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