幸福な人のリスト


                 登山鉄道の途中リッフェルアルプ駅から麓までの散策コースがあります
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                                                 永遠の法の下で生きる (上)
                                                 ルカ16章14-18節
         

                              (1)
  今日の箇所は短い箇所ですが3つの事柄が扱われ、しかもいずれも律法が共通の問題になっています。

  イエス様はすぐ前の13節で、「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」と言われました。不正な管理人の譬えを話された後そう言われて、どんな召使も2人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、2人の命令に同時に従うことはできない。それと同じで、神と富に兼ね仕えることはできないとおっしゃいました。

  すると今日の冒頭で、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」というのです。金に執着するとは、元のギリシャ語では金を愛するとなっています。英語聖書でもloveと訳しています。

  愛は大切です。パウロは、信仰、希望、愛、この中で最も大いなるものは愛であると書きました。私もそう思います。

  毎年、新聞で長者番付が発表されます。皆さんはどんな気持ちでご覧になりますか。若い時は、そんなことを夢にも思った分けではありませんが、興味本位で見ました。今は関係ないので目もくれなくなっています。

  イギリスでも類似したものがありますが、私が興味を持つのはそれと違って、「金持ちのリストでなく、幸福な人のリスト」というものの発表です。日本では知りませんが、向こうでは一般の興味を惹くそんな発表がなされます。今年も5月に、自薦ではありません、他薦で選ばれた100人が載りました。

  それらの人は、素晴らしい笑顔を持っている方ですが、自分の幸福を見てくださいというのではありません。殆どは、不幸を負った人たちです。

  1)地方都市に住むある両親と娘さんは、その街にあった荒廃した土地を市民農園に作り変えて、不当な扱いを受けている青年たちと一緒にそれを耕しています。仕事のない彼らを励ます取り組みです。
  2)ある御夫婦は、お子さんが難病の小児ガンを患っていまが、12年間生かされたのを感謝し、多くの人に呼びかけて10億円の義援金を募り、すっかりガン研究のために捧げました。
  3)また貧しいコロンビア出身の青年は、ホームレスや仕事につけない人たちが仕事に就けるように、芸術の創作活動を教えながら、彼らの就職のために働いています。
  4)また別の19歳の青年は、昨年直腸ガンになり先月亡くなりました。彼は病床にありながら、10代の人たちのガン研究のために募金を募り、約4億円の資金を集め、全部寄付して亡くなりました。病床の写真はそんな病気と思えないほど晴れやかな顔をしていました。この金曜日に葬儀があり、埋葬の後でしょうか教会の庭に千人ほどが集まり、牧師の合図で一斉に大きな拍手をして、皆、満面の笑顔で葬儀が終わりました。
  5)また20年にわたり、150人ほどの社会的に恵まれない青年たちのために、毎週色々な活動をして来た青年のための活動家もいます。 
  6)また、25歳の青年は自転車事故で車椅子生活になりましたが、もう一度歩けるようになるため手術代300万円を貯めました。ところが6才の脳性小児マヒの子どものことを聞いて、その会ったこともない子のために手術の費用を寄付したということでした。

  色んな分野で取り組む100人の人たちから多くのことを教えられました。自分が幸福になろうと言うのでなく、自分よりも他の人たちに幸福になって欲しいと働く人たちです。「幸福な人のリスト」に挙げられましたが、どの方の笑顔も素晴らしい愛の笑顔でした。私は彼らの写真を見て、彼らの働きは世の片隅でなされていますが、人間の愛は小さな個人を超えて何と大きく広がり、何と豊かに人と分かち合うものになるのだろうと思い、考えさせられました。

  しかし、同じ愛でも自己愛があり、今日の箇所のように金への愛、執着があります。ユダヤ人にとっては富は善です。富は善良な人間の印とされました。日本では富をどう見ているでしょう。

  富は善ですから、ファリサイ人は善行を見せびらかし、富は神の祝福の結果だとしてひけらかす者もいたようです。それで嫌悪すべき忌まわしさが生まれたのでしょう。

  彼らには自信がありますから、人は神にも富にも兼ね仕えることができると考え、イエスに対して、何だ、青二才と嘲笑ったのです。「嘲笑う」の元の言葉は、鼻で笑うという言葉です。日本語でも同じだと思います。

  先週、東京教区総会で初めて発言しました。これまで挙手してもほぼ10年間指名されなかったのです。発言は前に出て、発言台に立って3~400人に向かって発言することになっています。話し始めると、何人かに大きな声でヤジられました。ふと見ると、前の辺りで陣取っている教区常置委員で、教団常議員もしている人たちではありませんか。何人かは何と偉そうに腕組みしてふんぞり返ってヤジっているのです。驚きました。

  こういう態度の悪い人たちが教団の中枢を担っているのを知り、これでは「伝道、伝道」と彼らが掛け声をかけても、日本のキリスト教は衰退する一方だと思いました。非常に態度が悪い。最初から自分たちは正しいとして、謙虚に聞く耳を持ちません。情けないと思いました。

  イエスはしかし、嘲けられる中で、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」とおっしゃいました。「自分の正しさ」とあるのは「自分の義」のことです。彼らは、自分の義を見せつけるのが特徴だったようです。ふんぞり返ってヤジっていた人たちと残念にもどこかでダブります。

  ルカ18章に、イエスが語られた「ファリサイ人と徴税人の譬え」が出てきます。後でご覧ください。自分の義を見せつける、彼らの自信満々な姿がうかがえます。

  だが、その心が何を考え、何を意図しているかを神はご存知です。神の目までごまかせません。たとえ人や自分の心を欺けても、神の目を欺くことはできません。

         (つづく)
                                        2014年6月1日



                                        板橋大山教会 上垣 勝



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