王族の一人


                    ゴルナーグラートに着くとみな思わず襟を立てました。
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                                                 永遠の法の下で生きる (中)
                                                 ルカ16章14-18節
         

(前回から続く)

  次に、「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」と言われました。人に尊ばれる。それ自体は悪くありません。ただ、そのことと、「人に尊ばれたい」、人に迎合し、人の歓心を買いたいということとは違います。

  何が問題なのでしょう。イエスは何を言おうとしておられるのでしょう。彼らの信仰には、「ただ神の栄光のために」という所まで、突き抜けたものがありません。一歩手前で止まって、自分が褒められるか否か、その辺の所でウロウロしている。ファリサイ人は、自分は信仰的だと語り、自分はどう見られるかと辺りを見回して心の中でキョロキョロしているのです。神を指し示す信仰でなく、自分を指し示す醜い生き方に過ぎません。

  信仰とは、神について、キリストについての知識ではありません。知識も大事ですが、根本は知識でなく、神との、キリストとの実際的な交わりです。しかしまた、神との交わりが大事だ、自分は交わっていると言いながら、自分を指し示すようになればダメです。偽善です。

  そこで、イエスは単刀直入に、「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」と語って、嘲笑う彼らですが、神の前に単純に素直になるように、彼らをもまともな道に導こうとされたのです。それはキリストの愛であったと思います。

  イエス様は、ロバの子に乗ってエルサレムに入場されました。マタイ福音書はその時のことを、「あなたの王が、あなたの所においでになる」とゼカリヤ書を引用して書いています。王なるキリスト。聖書はキリストをまことの王と見ています。

  まことの王ですから、キリストは、彼らに対しても王的な憐れみをもって、寛容と慈愛を失わずに、彼らをまことの人間らしい人間へと導こうとされたのです。

                              (2)
  次の、「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」という言葉は、新約の中でも色々議論がある箇所です。

  「力ずくで」とあるのは、暴力的にとか、激しく襲うとの意味です。これは恐らく、徴税人や罪人などが、これまで神の国から除外され、彼らは決してそこに入れないとファリサイ人から言われて来た人たちが、イエス神の国の福音を説き始めて、「健康な人には医者はいらない。要るのは病人である。私が来たのは、義人を招くためでなく、罪人を招くためである」とおっしゃるのを聞いて、喜びを持ってイエスのもとに殺到しました。

  ところがファリサイ人や律法学者はそれを阻止しようと必死になりました。イエスの福音の前に立ちはだかり、天国への道を閉ざし、自分も入らないし、人々をも入らせない。そのため、徴税人や罪人たちは、まるでファリサイ人や律法学者たちを押しのけて、力ずくで激しく神の国を襲っているかのように見えると語っておられるのでしょう。

  「力ずくで入ろうと」という言葉のもう一つの意味は、信仰というのは棚からぼたもち式に、何もせずただ待ちさえすればいいという安易な生き方ではないという事です。イエスは、「求めよ、さらば与えられん。捜せ、さらば見出さん、門を叩け、さらば開かれん」と言われました。「求めよ」とは、執拗に繰返し求め続けることです。信仰というのは、そうゆう積極的、へこたれない、意志的な生き方です。先程、紹介した「幸福な人のリスト」の人たちは、そういう強い意志をもって人々のために笑顔を持って生きている方々です。

  そして求め続けるあり方は、同時に、神の前に自ら悔い改めたり、激しく砕かれて、砕かれても前進して行く生活もさします。

  ですから、「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」とおっしゃるのです。イエス神の国の福音を宣べ伝えられ、誰でも信じれば救われると申されましたが、それは律法の廃棄や終焉を意味しないからです。

  へブライ語の文字は互いによく似ていて、小さな点があったりなかったり、角が滑らかだったり角張っていたりによって、文字が違います。それを譬えにして、天地が滅びる事の方が、律法のごく僅かな一点一角がなくなるよりは易しいと。すなわち、偉大な神の法は永遠の法として未来永劫に続くと言おうとされたのです。

  私たちは、神の永遠の御支配の中で生きているのです。人間の一切のことは必ず滅びます。生者必滅です。仏教を出さなくても当然です。だが神の法は永遠であり、神の愛も永遠です。そして王なるキリストも永遠です。一点一角も変わらない。

  ですから、先程の続きですが、キリストにつながる人は、永遠の王なるキリストの下にある王族の一人。キリストにあって生きる皆さんは、永遠の王家の一人と申し上げていいでしょう。いい服装もしていませんが、王家の一人。そして王なるキリスト、このまことの王は暴君ではありません。権力的支配者でなく、正義を貫き、憐れみ豊かで、寛容と慈愛に富む王です。その王族のお一人です。

  私たちはそう考えて、笑みを絶やさず、人に優しく、敬意を失せず、キリストのように人に仕え、寛容と慈愛をもって、しかし胸を張って王族の一人として、永遠を見つめて生きてく。そういうことも、ここから考えさせられます。


         (つづく)
                                        2014年6月1日



                                        板橋大山教会 上垣 勝



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