ノー・モア・フクシマ


                      ゴルナーグラートへの登山電車の窓から       (右端クリックで拡大)
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                                                小石ひとつ地に落ちない (中)
                                                アモス9章1-15節


                              (1)
  こうして今日の9章になります。すなわち神の裁きの時が熟しに熟し、今にも審判が下されんばかりです。それが9章の前提です。この前提なしに9章を読んでも、意味が充分把握できないでしょう。

  まず1節は、「わたしは祭壇の傍らに立っておられる主を見た。主は言われた。『柱頭を打ち、敷石を揺り動かせ。すべての者の頭上で砕け…』」と語ります。訳の意味が曖昧です。

  預言者アモスはまず、主が祭壇、エルサレムの聖所の傍らに立っておられるのを見たのです。すると主が、「柱頭を打ち、敷石を揺り動かせ。すべての者の頭上で砕け…」と言われたというのです。一本の柱頭ではない。多数の柱頭、いや神殿の全ての柱頭を悉く撃ち、それをドタン、ドタンと、敷石を揺り動かさんばかりに打ち倒して、その柱頭をそこにいる全ての人達の頭上に投げて砕けと命じたというのです。

  イエスの宮きよめどころではありません。まあ、すごい預言です。聖所も祭壇もすべてをブッ壊せと言うような勢いです。まさに野人の叫びです。それほどイスラエルに罪が累積し、特に祭司や支配者層に蔓延している。貧しい農民預言者アモスの目には、彼らの姿が明々白々なのでしょう。

  今日、日本の政治家や大富豪はどうなのでしょう。

  1章2節で既に、「主はシオンから吠えたけり、エルサレムから声を轟かされる」と語られていますし、3章8節でも、「獅子が吠える、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか」と語られています。アモスは野人ですが、主なる神こそ吠える野獣の如しです

  預言者的使命の凄さ、厳しさです。私たちは神を飼い慣らそうというような甘い信仰をしていてはならないのです。神を侮っていないか。主なる神は、今のところまだ我慢しておられるかも知れませんが、もし真に怒り、吠えたけられるなら、私たちが立つ地の基から揺らぐに違いないのです。

  「汝ら静まりて、我の神たるを知れ。」そのことを、私たち主を知った者たちは先ず、真に心の底深くから悔い改めなければならないのです。

  アモスは更に覚めた目をもって語ります。1節は続いて、「生き残った者は、わたしが剣で殺す。彼らのうちに逃れうる者はない。逃れて、生き延びる者はひとりもない。たとえ、彼らが陰府に潜り込んでも、…天に上っても、…カルメルの頂に身を隠しても、…海の底に隠れても、敵の前に連れて行かれても。わたしは彼らの上に目を注ぐ。それは災いのためであって、幸いのためではない。」

  必ず災いを下す。どこに隠れても、どこに潜り込んでも、いかに知恵を絞っても、どんな手立てをしても、神の審きのみ手から逃れるすべはない。

  恐ろしいと思いますか。滑稽だと思いますか。私は、旧約の真の預言者の使命の厳しさを思わざるを得ません。私たちは、主が語れと命じておられることを謙遜になって語っているか。希釈して語っていないか。牧師や教会の自己保身のために、人に遠慮し、社会に迎合して、神の言葉を薄め、曲げて語っていないか。今日それが問われます。

                              (2)
  次に5節以下で、「 万軍の神なる主。主が大地に触れられると、地は揺れ動き、そこに住む者は皆、嘆き悲しむ。大地はことごとくナイル川のように盛り上がり、エジプトの大河のように沈む…」とあります。これは一体何を語っているのでしょう。

  天の神、万軍の主は、地と没交渉ではない。天の高殿でのんびり安らっておられるのでなく、この大地に、この地上世界に介入しておられるという事です。大自然に対してだけでなく、人の心の内面にも、社会や国家、地上に住む者すべてに関係していかれるということです。万軍の主が地に触れられると、地が揺れ動く。神は地上に必ず影響を及ぼしていかれるという事です。

  キリスト教会は、この神のみ後に従って歩むのです。イエスは弟子たちを召して、「私に従って来なさい」と命じられました。教会の使命は、昨日も今日もまた明日も進んで行かれる、キリストのみ後に従って宣教に勤しみ、進むことです。

  3.11の大地震で被災した方々は大変な経験をされ、未だその傷は癒えず、残念でなりません。一日も早く回復されることを願っています。ただ、思いがけず神の介入を経験しました。どういう介入かというと、原子力発電というそもそも人類が制御可能であるかどうか非常に疑問である最先端技術を、安全だ、安全だと、安全神話を振りまき、べらぼうな交付金を地元市町村にばらまくことで地元に飲ませて推進して来た技術が、神の介入により天からの警告を受けたのです。天からの警告です。神の裁きと言ってもいい。それが福島原発事故です。

  政府がひた隠しにして来た吉田調書が明らかになりました。今、インターネットでその骨子がかなり詳細に配信され始めました。吉田所長自身が、今や炉心が溶融して、核燃料が溶けてメルトダウンし、炉心溶融だけでなくメルト・スルーして、格納容器の底を貫き、チャイナ・シンドロームが起こると怯えている様子が手に取るように分かります。一基だけではありません、一基でそれが起こり、次々2基、3基と福島原発が連続してメルト・スルーして、猛毒の高レベル放射性物質が日常の生活環境の中に大量に放出され、国民を直撃すると彼は考えたのです。

  吉田所長がパニックになり、所員全員が免震重要棟から引き上げることを考えたことが分かります。所員が大量被曝すれば、誰も制御できなくなり、1号機から4号機まで全部の放射性物質が自然界に放出される。その危険が現実に迫っていたのです。実に恐ろしい事態を迎えていたのです。

  ただ理由は分かりませんが、メルト・ダウンだけで終わり、メルト・スルーまで行かなかった。水がどうしても入らなかったのですが、何かの理由で入ったのです。それで助かったのです。そこに神様のご加護があったと私は思います。すなわち、神は「思い直された」(7章)のです。しかし、なぜ水が入らず、なぜ水が入ったのかさえ未だ分からないのですから、その検証もされずに原発の再稼働というのはあまりに非常識であり、あってはなりません。

  日本の原発の最前線にいた現役の最も優秀なプロでさえ制御できない原発事故。手が付けようがなかったのです。余りにも巨大な、圧倒的な大自然の威力をもっての神の介入。だが同時に、神は裁きを思い直されるという介入もされたこと…。もし今後も、悔い改めなければ、先ほど申し上げたもはや「神は見過ごされない」ということが起こる可能性が大です。「ノー・モア、フクシマ」の声を大にしなけらばなりません。

  吉田調書。これは国際的な貴重な歴史的資料です。日本政府は公開しなくても、海外世論が公開を迫るかも知れません。私は公開を要求します。原子力発電も原子力爆弾もいかに人類の能力を超えたものであるか。広島の事実から世界が学んだように、世界の人たちはこの調書から学べるのです。



          (つづく)

                                        2014年5月25日



                                        板橋大山教会 上垣 勝



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